天才テリー伊藤対談「水野雄仁」(1)蔦監督は今の世に通用しない方です

天才テリー伊藤対談「水野雄仁」(1)蔦監督は今の世に通用しない方です

天才テリー伊藤対談「水野雄仁」(1)蔦監督は今の世に通用しない方です

●ゲスト:水野雄仁(みずの・かつひと) 1965年、徳島県生まれ。池田高校時代、82年と83年の「全国高等学校野球選手権大会」、83年の「選抜高等学校野球大会」と3大会連続で甲子園に出場。82年夏・83年春における史上4校目の「夏・春連続制覇」、83年夏のベスト4進出の中心選手として活躍。その風貌も相まって「阿波の金太郎」と呼ばれた。83年度のドラフト会議で読売ジャイアンツから1位指名を受け入団。背番号は「31」。86年には1軍に定着して8勝をマーク。翌87年には10勝をあげ、王監督初のリーグ優勝に貢献。しかし、2年目に肩を痛め、9年目に右肘の遊離軟骨で苦しむなど常にケガとの戦いで、96年限りで一度引退。メジャーリーグを目指し復帰するが、98年、正式に引退。その後は野球解説者として活躍中。

 巨人軍のピッチャーとして活躍、その後はコーチ、野球解説者としてその腕を振るう水野雄仁氏。その野球人生の出発点は、池田高校野球部の「やまびこ打線」で大きな注目を浴びたこと。天才テリーとともに、この夏100回を迎える高校野球に賭けた熱い時代を語り尽くした!

テリー 今、第100回の全国高校野球選手権大会の真っ最中ですけど、この時期は水野さんも池田高校時代を思い出すんじゃないですか?

水野 そうですね。高校生たちの必死な姿を見ると、「自分たちもあそこで戦ったなぁ」と懐かしく思うことはありますね。

テリー ねえ、池田高校といえば、「やまびこ打線」で一世を風靡して、82年夏、83年春を連覇した強豪校でしたから。

水野 先に74年春の大会で僕らの先輩が11人で出場して準優勝しているんですよ。それが「さわやかイレブン」と呼ばれて、最初に池田高校を有名にしたんです。

テリー あ、そうなんだ。その時も監督は蔦(文也)さん?

水野 そうです、僕が入学する9年ぐらい前の話ですね。僕より1つ上の畠山準さんと僕とが在籍していた時に2年連続で優勝。その時に「やまびこ打線」と呼ばれるようになって。

テリー やっぱり蔦監督は名将だなァ。それが池田高校を選んだ理由だったんですか?

水野 いや、それが違うんですよ。僕は小学生の時から野球を始めたんですけれど、畠山先輩に中学まで1回も勝ったことなかったものですから、「高校でこの人の敵になったらダメだ」と同じ学校を目指した先が池田高校だったんです。

テリー 僕、池田に行ったことありますけど、あそこって何にもないところですよね。

水野 そうです。盆地ですし、山と山の間に家があるっていうぐらいの田舎ですからね。ずーっと吉野川の上流へと遡っていって、だんだん山が迫ってくるのを見て、さみしい気持ちになりましてね。15歳で初めて親元を離れての寮生活でしたから、不安が強かったです。

テリー 名門野球部の練習は厳しかったですか?

水野 ウエイトトレーニングとバッティング練習がメインでしたから、いわゆる「練習中は水も飲めなくて‥‥」みたいな厳しさまではなかったと思います。もちろん、蔦監督は大正時代生まれですから、厳しい方ではありましたけど。

テリー どんな人だったんですか?

水野 今の世の中では通用しない方ですね(苦笑)。

テリー ハハハ、コンプライアンスゼロ、みたいな。

水野 まず普通に話なんかできないんですよ。「はい」か「いいえ」しか言っちゃいけなくて。口答えなんかしたら、すぐ鉄拳が飛んできますし。

テリー でも、あの頃の運動部なんて、そんなものでしたもんね。

水野 でも池田高校は部員が少なかったせいか、先輩と後輩の上下関係はなかったんですよ。だから理不尽なしごきとかもなくて、監督もこちらがちゃんとしていれば怒らない方でした。なので、僕なんかは楽しく過ごせたんですけどね。

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