「夏の甲子園」大阪府代表の“記念大会に強い”伝説は明星高校から始まった!

「夏の甲子園」大阪府代表の“記念大会に強い”伝説は明星高校から始まった!

「夏の甲子園」大阪府代表の“記念大会に強い”伝説は明星高校から始まった!

 大阪府代表は記念大会に強い。1958年の第40回大会が初めて記念大会として開催されて以降、実に5回も優勝しているのだ。その大阪府代表にとって初の記念大会優勝となったのが、’63年の第45回大会。同年春の選抜であっけなく初戦敗退を喫した明星がその夏の選手権では一転、快進撃を見せることとなった。

 初戦の大垣商(岐阜)を6-0、続く甲府商にも11-0と連続完封で勝ち上がり、ベスト8へと進出。準々決勝の九州学院(熊本)戦は6回を終わって0-3とリードを許していたが、7回裏に3安打を集中して2点を返すと土壇場9回裏には2死無走者から勝ちを急いだ相手投手から2四死球を選び、一発長打で逆転サヨナラのチャンスをつかんだ。この絶好の場面で図ったように左中間への三塁打が飛び出し、4-3の逆転サヨナラ勝ち。準決勝の横浜(神奈川)戦も10安打で5得点。5-0の完封勝ちでついに決勝戦へと駒を進めたのである。

 実はこの夏、明星ナインにはある命題があった。それが“ストップ・ザ・イケナガ”。この春の選抜で前評判通りのピッチングを披露し、優勝投手となった下関商(山口)のエース・池永正明(元・西鉄)を打ち崩すことである。前述したようにこの選抜で明星は初戦敗退しているが、その時の対戦相手が下関商だったのだ。池永にはわずか3安打に抑え込まれて8三振を奪われた。0-5の完敗。その悔しさを胸に、猛特訓をしてきたのである。そしてその宿敵とふたたび相まみえることとなった。しかもその舞台は夏の選手権決勝戦。明星ナインにとってリベンジするにはこれ以上ない絶好の状況が整ったと言えよう。

 試合は明星の先攻で始まった。その先頭打者・片山宏が池永の初球をバントヒット。池永からのいきなりの内野安打に明星スタンドが沸いた。これが試合の決め手となった。続く打者の犠牲バントで1死二塁とすると、3番・木下美智雄の当たりはショートへのゴロとなったが、試合開始早々に池永がランナーの出塁を許したことで、下関商内野陣は慌てていた。何と一塁へ悪送球してしまったのだ。そしてこの明星の1点先取に明星スタンドが大騒ぎとなる。逆に池永がアッという間に相手に得点を許してしまったことで、下関商ナインは心理的に追いつめられていった。

 この追加点の絶好の場面で明星は4番の和田徹(元・阪神など)が内野安打し、一、三塁。さらに5番の浜田美彦の時に和田が二塁盗塁を敢行すると、下関商の捕手が二塁へ悪送球。この回、明星に2点目が転がり込んだのである。

 これ以降、明星打線は池永から追加点を奪えずにいたが、先発したエース・堀川浩伸(法大)が踏ん張り、得点を許さなかった。6回裏に連続長打で1点を返され、なおも1死一、二塁とピンチを招いた場面でも2番手の角田哲美が好リリーフ。同点を許さなかった角田が最後まで投げ抜き、2-1で明星が2-1で逃げ切ったのである。

 こうして池永擁する下関商の春夏連覇の夢を打ち砕いた明星は、春夏通算7度目の甲子園出場にして初の全国制覇を飾ったのである。なお、この時明星を率いていた真田重蔵監督はプロ野球でも沢村賞を獲得するなど実働11年で178勝を挙げた名投手(松竹などで活躍)。さらに戦前最後の甲子園大会で2連覇を達成した海草中(現・向陽=和歌山)のエースでもあった。つまり、真田は元プロ野球選手で甲子園優勝監督第1号となっただけでなく、甲子園優勝投手が甲子園優勝監督となった第1号でもあるのだ。

(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=

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