週刊アサヒ芸能「創刊60年の騒然男女」スポーツ界「波乱のウラ舞台」<野球篇/特別インタビュー・広岡達朗>(2)川上さんを見返したかった

週刊アサヒ芸能「創刊60年の騒然男女」スポーツ界「波乱のウラ舞台」<野球篇/特別インタビュー・広岡達朗>(2)川上さんを見返したかった

週刊アサヒ芸能「創刊60年の騒然男女」スポーツ界「波乱のウラ舞台」<野球篇/特別インタビュー・広岡達朗>(2)川上さんを見返したかった

 ヤクルト、西武の監督として日本一を達成した広岡氏は、95年に千葉ロッテのGMに就任する。球団は5年契約を提示してきたが、「3年で結果を出さなければ、責任を取る」と断言した。しかし、思わぬところから横やり。当時のボビー・バレンタイン監督との確執がスポーツ紙上でたびたび伝えられたのだ。

「日本の野球のスタイルになじめずにいたボビーが泣きついてきたこともあった。ボビーは、私の助言には、いつも『イエッサー』でしたよ。実際、2人の関係は良好だったが、まるで犬猿の仲かのような事実を歪曲したデタラメな記事が書きたてられたのです」

 記事の影響もあり、チームは空中分解し、広岡氏も96年に任期途中で解任される。広岡氏によると、批判の急先鋒となったのは某スポーツ紙だったという。

「同紙が敵に回ったのは、川上派だったから。さらに川上さんは、一番弟子の藤田(元司)を使って、球団オーナーを懐柔。こともあろうに、西武時代に私の下でヘッドコーチを務めていた近藤昭仁を監督に、打撃コーチだった長池徳士もコーチに招へいし、チームを編成したんです。ところが、98年にチームは18連敗と不名誉な記録を作った」

 名前のあがった、川上氏との対立は有名である。広岡氏が巨人に入団した1年目の出来事だ。当時、巨人の一塁手だった川上氏は、後輩の広岡氏に対して、こう告げたという。

「俺は守備が下手だから、この範囲は捕球するけど、ここから横にそれたら捕らんぞ」

 そのため、川上氏は、守備でユニホームを泥だらけにすることはなかった。

「川上さんは、守備の時もバッティングのことばかり考えていた。こっちもプロの世界で生き残っていくために必死だったから、『そのくらいの球は、他のファーストだったら捕球できますよ』と訴えたこともありました」

 また、現役引退直後の67年、単身渡米した広岡氏がフロリダ州ベロビーチで行われていた、V9真っただ中の巨人キャンプを視察した時のこと──。

「広岡が来たから、練習をやめろ」

 当時、監督だった川上氏の下で参謀役を務めていた牧野茂氏が、選手にそう指示を出したというのだ。

「この野郎って思いましたよ。でも、対立があったから必死に練習して、技術を磨くことができた。監督になってからも、川上さんを見返してやりたい、強い巨人を倒したいという気持ちを忘れることは一度もなかった。その反骨心がヤクルト、西武で日本一になる原動力になったのです。だから、川上さんは私にとって恩人でもあるのです」

 そう話す広岡氏は、現在の巨人の体たらくについて、「ここから建て直すのは茨の道。僕がもう20歳若かったら──」と嘆くのだった。

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