強豪を“攻め倒した”花咲徳栄、悲願の甲子園初Vへ歴代監督がつないだバトン

強豪を“攻め倒した”花咲徳栄、悲願の甲子園初Vへ歴代監督がつないだバトン

【表】悲願の甲子園初優勝、花咲徳栄の歩んだ優勝までの道のり

6試合で計61得点、悲願の頂点に駆け上がった花咲徳栄

 第99回全国高校野球選手権決勝で花咲徳栄が広陵(広島)に14-4で圧勝し、埼玉県勢として悲願の初優勝を遂げた。春の選抜大会では1968年に大宮工、2013年に浦和学院が頂点に立っているが、高野連加盟校数で全国トップ5を争う埼玉は夏の大会に縁遠かった。

 県予選決勝で浦和学院に快勝し、1県1代表としては埼玉県勢初の3連覇を遂げて甲子園に乗り込むと、1回戦から決勝までの6試合で計80安打、全試合で9点以上を挙げるなど総得点は61を数えた。野球どころでもまれた広陵も相手にならず、5、6回で10点を奪う猛打ぶり。強力打線に加え、ともに3年生右腕の綱脇慧と清水達也の継投を6試合で貫く戦略も見事だった。

 夏は5度、春は4度の甲子園出場に導いた就任17年目の岩井隆監督(47)は、これまでの辛苦がオーバーラップしてきたのか、万感胸に迫るものがあったのだろう。「本当につらい道を一つ一つ、一歩一歩、よく駆け上がってくれた」としみじみと初優勝の喜びを口にした。

 つらい道は、なにもナインだけが通ってきたわけではない。歴代監督も臥薪嘗胆の道のりであった。

歴代監督が秘めた思い、「何もないところから一歩ずつ…」

 花咲徳栄はスポーツ万能高校の埼玉栄の姉妹校で、1982年創設。野球部は開校とともに立ち上がり、埼玉栄のコーチだった浜本光治監督が同年に赴任し、8年間指導した。広島県呉市出身の浜本監督は、原爆が投下されてから11年後に生まれた。幼少期には痛ましい戦禍が街のあちこちに広がっていたが、大人たちが復興に向けてしゃにむに働く様子を間近で見てきた。

「何もないところから一歩ずつ築き上げることが好きなんですよ」。私が地元新聞社でアマチュア野球を担当していた往時、浜本さんが指揮を執る花咲徳栄をよく取材した。弱小だったが、指揮官のたぎる闘志、チームを強くしようという心意気は打たれても、打たれても鍛えたいと決めた投手を一向に降板させようとしない姿勢に見て取れた。

 浜本さんは89年3月で退任し、代わって稲垣人司監督がやって来た。

 創部間もない創価(東京)を強化し、近鉄入りした小野和義を擁して83年夏の甲子園に初出場。現日本ハム監督の栗山英樹も教え子だ。臨時コーチを任された福岡第一では、ロッテなどで活躍した前田幸長を育て、88年夏の大会で準優勝に導く。

急逝した稲垣監督の後をついだ岩井監督

 埼玉・川口幸並中学出身の岩井監督は、中学3年のとき、強豪になりつつあった大宮東の練習会に参加したが、「相手にされませんでした」と振り返ったことがある。ところが桐光学園(神奈川)の見学会では指揮を執っていた稲垣監督から「いろんな特長を持った選手が野球には必要」と説かれ、生涯の師と決めた。稲垣監督と中学3年の岩井少年は、このときから不思議な縁で結ばれることになる。

 岩井監督がコーチとして花咲徳栄で奉職していた2000年10月、稲垣監督が練習試合中に倒れて死去。監督に就任した01年夏に初の甲子園出場を遂げるものの、大舞台では思ったように勝てなかった。特に夏は昨年まで4大会中、3大会は優勝校に敗れる悲運。西東京・日大三。神奈川・東海大相模、栃木・作新学院に屈してきた。

 花咲徳栄は稲垣監督時代から好投手を輩出し、プロ球界に大勢を送り込んだ。しかし打撃力の差で敗れた試合が多く、岩井監督は投手力+打線の破壊力が甲子園優勝の近道とし、今大会の打線を作り上げ、強豪を次々と“攻め倒した”。恩師にいい報告ができた。

 1951年に熊谷が初の決勝に進んだが、京都・平安に1-4で敗れ、93年には春日部共栄が県勢2度目の決勝に進出したが、兵庫・育英に2-3で屈した。99回を数える大会で埼玉県勢はわずか3度しかファイナルを経験していなかった。61得点での栄冠は、先人たちの悔しい思い、花咲徳栄の歴代指導者の艱難辛苦もまとめて場外へと吹き飛ばした。 (河野正 / Tadashi Kawano)

関連記事(外部サイト)