23歳で他界した親友と迎える7月4日… 中日・京田が開幕戦ではめたグラブと約束

【プロ野球】中日ドラゴンズ京田陽太、4月に23歳で他界した親友のグラブはめる

記事まとめ

  • プロ野球の開幕戦で、中日の京田陽太は前夜に届いたばかりの新品のグラブを手にはめた
  • 京田は、青森山田高で2学年下だった中井諒さんと、家族ぐるみの付き合いが続いていた
  • 中井さんは骨のガンで4月13日に死去、京田は中井さんが使う予定のグラブをもらった

23歳で他界した親友と迎える7月4日… 中日・京田が開幕戦ではめたグラブと約束

23歳で他界した親友と迎える7月4日… 中日・京田が開幕戦ではめたグラブと約束

中日・京田陽太【写真:荒川祐史】

雨の開幕戦、京田は前夜に届いたばかりの新品のグラブを手にはめた

 雨の神宮球場。空っぽのスタンド。球場を包む静けさが、異質な開幕戦を実感させる。6月19日の夜。中日・京田陽太内野手はショートの定位置に立ち、ふと左手に目を落とした。オレンジ色の見慣れないグラブ。前夜に届いたばかりの新品は、使い慣れたモデルとは全く違う。加えて、滑りやすいグラウンドや、張り詰めた空気。不安要素はいくらでもあった。

 8年前。青森山田高で不動のレギュラーだった3年生の京田は危機感に襲われた。小中高どの年代でもすぐに定位置を掴んできた野球人生で初めての感情だった。「やばい。こいつに負けるかも」。2学年下の1年生に、とびきり守備の上手い遊撃手がいた。

 中井諒さん。

 岸和田市からやってきた右投げ右打ちの内野手は、先輩の背中を追って泥まみれになりながら白球を追う。そんな姿に京田は触発され、自然と互いに高め合う存在になっていった。中井さんは高校卒業後、桐蔭横浜大を経てNTT西日本に入社。プロと社会人、互いに進路は違っても、家族ぐるみの付き合いで連絡を取り合う関係は続いた。

「絶対、プロに行きますから」

 一足先に華やかな世界へと飛び込んだ京田にいつも宣言していた。昨年6月の都市対抗予選では決勝の2ランスクイズを決めてチームを本戦出場に導いた。その翌月には「9番・遊撃」で東京ドームの舞台に立ち、快音も残した。

骨肉腫で入院していた中井さんと話した「一緒に二遊間を組みたいな」

 都市対抗が終わってまもなくの頃だった。中井さんが体調を崩して入院したと、京田は知った。病名は骨肉腫。骨のガンだった。

 一度お見舞いに赴いた際は、いつも通りの笑顔で迎えてくれた。他愛もない会話に花を咲かす。茶目っ気たっぷりの生意気さが、京田は大好きだった。いつだったか、「一緒に二遊間を組みたいな」と何気なく話を振ってみると、ニヤリと笑って返された。

「じゃあ、僕がショートですね。下手な方がセカンドなんで」

 春になって退院したと聞き、快気祝いを送った。数日経っても、返信がない。代わりに中井さんの母からお礼の連絡が来た。その後も、可愛い後輩からのメッセージが届くことはなかった。憎きガンは、しぶとかった。

 季節外れの肌寒い春の嵐となった4月13日。23年間の、あまりにも短い人生に終わりが訪れた。

 現実として受け入れたくない思いが、全て涙となって溢れ出す。妻の葉月さんとともに大阪での通夜に参列した京田は、目を真っ赤に腫らして、中井さんの母にひとつのお願いをした。

「何でもいいんです。諒の野球道具をいただけませんか?」

同じ久保田スラッガー製、同じ担当者だった不思議な縁

 快く受け入れてもらい、今シーズン使う予定だったグラブが間もなく出来上がると聞いた。奇しくも、同じ久保田スラッガー製のグラブだった。すぐにメーカー側に連絡すると、京田も中井さんも同じ担当者だということが分かった。見たことも触ったこともないグラブを注文し、届いたのが6月18日の夜。3か月遅れの開幕戦を翌日に控えたナイター練習の時だった。

 表面には中井さんの背番号「6」と、岸和田だんじり祭の町紋が刺繍されていた。愛用のグラブと比べて一回り小さく、捕球面は狭い。ウエブの形状も異なる。ただ、皮はすでに柔らかく慣らされ、いつも通りの型付けが施されていた。

「唯一無二のグラブです」。メーカー担当の小川久範さんにとっても特別な思いがあった。「中井君は大学時代からお店に来てくれていて、僕にとっても思い入れのある選手だったんです」。主人を失ったはずのグラブに、光が当たる。「京田君が扱いやすいように調整してあります。でもまさか、すぐに試合で使うとは思ってもみなかったです」。

 通常ならオフシーズンに新調し、キャンプやオープン戦を通してグラブに慣れていく。ましてや、守備の負担が最も大きい遊撃手。いくら型付けしているとはいえ、すぐに公式戦で使うことはタブーにも近い行為だった。チームメートからは当然、心配された。自分だけの試合じゃない。ともすれば、独りよがりにも見える。それでも、京田には確信があった。

「僕にできることがあるとすれば、諒の分まで、明日を一生懸命に生きていくこと」

「いける。はめた瞬間、すぐに思いました。絶対に大丈夫だって」

 4時間49分におよぶ雨中の乱打戦は、延長10回の末に勝利で終えた。二遊間は組めなくても、一緒にショートを守った。「今年は、諒と一緒に戦いたい」。打席に入る際の登場曲も、中井さんが好きだった湘南乃風の「親友よ」を選んだ。

 開幕戦の翌日、1通のメッセージが届いた。送り主は中井さんの母。感謝の言葉とともに、こんな言葉が添えられていた。

「諒が保育園の卒園式の時も、大事な試合の時も、亡くなった時も、大嵐のような天気でした」

 開幕戦の神宮も、いつまでも雨が降り続いていた。土砂降りにならずに何とか持ちこたえたのは、中井さんの計らいだったのだろうか。分厚い雲に覆われた夜空を見上げ、京田は誓う。

「もう諒には、明日という日はやってこない。僕にできることがあるとすれば、諒の分まで、明日を一生懸命に生きていくことです」

 7月4日。24歳を迎えることができなかった中井さんの誕生日だ。亡き友が立った東京ドームでの巨人戦。きょうも京田は、亡き友と遊撃に立っている。(小西亮 / Ryo Konishi)

関連記事(外部サイト)