「自分たちの2年半は確かにあった」 休部の元PL戦士が贈る高校球児たちへの言葉

「自分たちの2年半は確かにあった」 休部の元PL戦士が贈る高校球児たちへの言葉

ミキハウス・澁谷勇将投手【写真提供:ミキハウス】

2014年夏、大阪府準優勝時のエース・澁谷勇将さんはプロを目指し奮闘中

 2016年の夏を最後に休部扱いとなっている大阪・PL学園高校硬式野球部。春夏全国制覇7度の名門の誇りを胸に、今も高みを目指しているPL戦士たちが全国にいる。ミキハウスに所属する澁谷勇将投手もその一人。休部で活動ができなくなった母校への思いを明かしてくれた。

 澁谷さんは名門のエースナンバーを背負い、2014年夏の大阪府大会を決勝まで勝ち抜いた。完封あり、好リリーフあり……。決勝戦はその夏、全国制覇をした大阪桐蔭に敗れ、惜しくも準優勝。夏を肌で感じると、最近のことのようにあの時のグラウンドの香りが蘇ってくる。

 優勝候補の筆頭だった大阪桐蔭は準決勝で履正社の1年生左腕・寺島成輝投手(現ヤクルト)に苦しめられたとあり、PL学園の先発投手は左腕が上がった。右腕の澁谷さんはリリーフ待機となった。しかし、先発、2番手も失点を重ね、点差は開いていった。0-9の展開で3番手でマウンドに上がった澁谷さんは2回1/3を投げ、強打の大阪桐蔭打線を1安打、無失点のピッチング。悔しい敗戦となった。

 泣いた。時間が経つと、ふとした疑問が湧いた。もしも、自分が先発していたら、結果はどうなっていただろうか。

 17歳の澁谷さんは、すぐに首を横に振り、現実を見つめた。

「なぜ、自分が投げさせてもらえなかったのかとすぐに考えました。結局、『お前しかおらん』というようなチームの方針だったら、自分が選ばれていたはず。大阪桐蔭が左に弱いというデータがあったかもしれませんが、自分の実力の無さに悔しさが出てきました。チームが勝つための最善策だったのだから、仕方がないなと今は思っています」

 甲子園に出場することはできなかった。精神的にも、技術的にも、もっと自分が変わらなければ、上には行けない。負けた次の日から、気持ちは切り替わった。大学で野球を続け、全国の舞台に立ち、そしてプロになる。高みを目指すためにトレーニング方法も見直した。

 振り返れば、悔しさが自分の成長の原点でもあった。澁谷さんは新チームになってからの背番号は11。大事な試合を任されていてもエースナンバーは同級生だった。

「1番を付けさせてもらえないんだ…というその悔しさがずっとありました。だから、もっと練習を頑張れたというか、同級生には絶対負けたくないという思いで練習をしていました。11番が自分自身を成長させてくれたと思っています」

 かつては桑田真澄投手(元巨人)も前田健太投手(ツインズ)も1年生だったが11番をつけて、最後はエースナンバーを背負った逸話も励みのひとつになった。最後の夏は努力の成果で背番号1を手に入れた。

PL学園で学んだことは今も生きている

 背番号1を手に入れるまでの2年半で学べたことが、今も生きていることがある。野球はチームスポーツであるということだ。当たり前のことかもしれないが、PL学園で過ごした時間が教えてくれた。

「辛いことがあっても、みんな同級生で乗り越えてきました。マウンドに立った時も、やっぱり自分勝手にピッチングするんじゃなくて、周りを見て、気遣えるようになったかなとは思います」

 自分自身が卒業した2年後に、母校の野球部は休部となった。練習に顔を出したくても、試合の応援もできない。大切なものが目の前から消えた。今年は全国の高校球児が、新型コロナウイルスの影響を受けてしまった。春夏の甲子園は中止、都道府県の大会も地域の独自大会となった。目の前から当たり前だったものが消えていった。

「僕たちが熱い思いで目指していた場所や大会がなくなってしまい、今の高校3年生にかける適切な言葉が見つかりません。すごく残念としか…。でも、PL学園が休部になった時も思ったのですが、こういうのは周りに理解を求めるものではないのかなと思います。自分たちにしかわからないもので、いいんじゃないかな、と」

 同情をしてほしいわけではない。頑張れと言われたいんじゃない。それぞれの生徒がこの現実と向き合って、前に進んでいくしかない。

「自分がPL学園で生活し、野球をしていた事はなくならないですし、これからも野球部が活動していなくても、PL学園自体はこれからも残っていくものです。僕たちが生活していた2年半は確かにありました。そこに嘘はありません」

 喜びも悲しみも、捉え方ひとつで、人生の大きな財産になる。(楢崎豊 / Yutaka Narasaki)

関連記事(外部サイト)