東京六大学史上最強 法政三羽ガラス裏面史(2)

 法政大学の黄金時代を彩った武勇伝は山ほどあるが、その中心にはいつも田淵幸一と富田勝がいた。2年生になった春、富田と山本浩二もベンチ入りを果たし、同期の“三羽ガラス”が合宿所に勢ぞろいした。
 中でも、気が合ったのが田淵と富田だ。田淵はすでに東京六大学野球のスターとして注目を集めており、スタイルもモデル並みで今で言うイケメン・プレーヤー。無口さもプラスに作用し、世間では“貴公子”なるキャッチフレーズで呼ばれるようになっていた。
 対する富田は一般部員から猛練習でレギュラーをつかんだ野武士のごとき雰囲気を持つ男だ。仲間思いで一本気な親分肌。ケンカっ早く何事にもすぐ熱くなるところがある、まさに法政版の“燃える男”だった。
 対照的な性格ではあったが、2人は不思議とウマが合った。熱血漢の“トミ”が率先して動き、“ブチ”がその後を悠々とついていく姿は法政大野球部の名物になった。2人はお互いを認め合っていた。

 酒好きで、毎晩のように門限を破って朝まで飲んでいた富田は、罰としてよくノックでしごかれたものだが、すでにこの頃から、富田と田淵は門限破りの常習犯だった。
 合宿所の門限は午後10時で、それまではじっと部屋に待機する。10時になると、松永怜一監督が点検のためマネージャー室に「全員いるか?」と電話を掛けてくるからだ。
 当時の池田周弘マネージャーが「はい、全員います」と答えるのだが、時折、松永監督は用もないのに「田淵を電話口に出せ」などと言い出すため、この電話が来るまでは部屋にいなければならない。
 それが終わると、ようやく“自由時間”だ。上級生の目を盗んで外出すると、寮の近くにあったレストランまで行き、ステーキやカツライス、スパゲティなど寮ではめったに出ないようなごちそうを腹いっぱい詰め込んだ。私も何度か一緒に食事をしたものだ。

 今となってはかわいいものだが、軍隊並みに厳しい環境下で練習に明け暮れていた学生にとっては、本当に楽しみな時間だった。
 もっとも、富田と田淵は富田が合宿所に入る前から一緒に遊んでおり、よく2人で新丸子や武蔵小杉の安い居酒屋やスナックに飲みに出掛けていた。
 この頃、田淵には第6回アジア選手権大会の歓迎パーティーで出会った彼女もいた。日本の貿易会社の令嬢・Kさんで、帰国後、神宮球場のネット裏で隠れるように田淵を応援するKさんの姿をよく見掛けたが、不思議と彼女が球場に来ていると、田淵はホームランを打っていた。

 富田が合宿所入りする直前にはこんな事件があった。ある夜、田淵と飲んで別れた富田が下宿に帰って来ると、1階にある自分の部屋の窓の前に1人の女が立っている。その女は手に包丁を持っていた。
 「トミ! 出てこい!」
 「殺してやる!」
 自分の部屋に向かって物騒な叫び声を上げていたのは、新丸子でよく行くスナックで田淵のファンだと言っていたホステスだった。
 「おい、何をそんなに怒ってるんだ?」
 そんなことをされる身に覚えのない富田は、理由を問いただしたが、女は答えようとはせず、ただ執拗に、
 「殺す! 殺す!」
 と迫ってくる。
 いい加減、頭に血が上った富田はバットを振り回して女を追い払った。

 深夜だったこともあり大事にはならなかったが、偶然、近所に住んでいた先輩がこの現場を目撃しており、翌日には「トミが痴話ゲンカで、女をバットで殴ろうとしていた」と噂になった。困った富田は田淵に問いただした。
 「ブチ、深夜にいつも行く新丸子のスナックの女が家まで来てな。ブチがなんか言ったのか?」
 「ああ、トミから『付き合いをやめろ』と言われたから、『これからはもう会わない』とその娘に言ったよ」
 どうやら、富田もこのホステスを憎からず思っていたようで、モテる田淵にそれとなく別の女にしてくれと伝えていたのだ。人のいい田淵が富田の望み通り女に別れ話を切り出したため、怒った女がトミの所に押し掛けてきたというわけだ。

 これが田淵と富田の女が絡む最初のケンカだった。結果的には、この女が包丁を振り回すような気性の激しい性格だったことが分かり、田淵は怖い女と手を切らせてくれた富田に感謝し、2人の友情の絆はさらに固くなった。
 ただし、富田は私にこんなボヤキを漏らすこともあった。
 「ブチはモテるからいくらでも恋愛が楽しめる。俺は童貞おろしも大阪の遊郭だ。不器用だから恋愛もできない。一流企業のお嬢さんとプラトニックな恋愛もできるんだから、ブチが羨ましい限りや」

 富田と田淵はよく飲んだが、実は酔い方でタチが悪かったのは田淵だった。
 練習休みの前日、田淵と富田、同級生の阪本健('67年秋の東京六大学ベストナイン・遊撃手)の3人が朝まで飲んでベロベロになった。寮に帰る途中で田淵がダウンしてしまい、路上に転がったまま動かなくなった。しばらくすると、どこかから「助けてくれ!」と声がする。富田が声の主を探すと、田淵を背負ったはずの阪本が田淵の巨体の下敷きになって唸っていたそうだ。
 私もベロベロになった田淵に痛い目に遭わされたことが何度もある。
 優勝祝賀会でしこたま飲み続け、合宿所の前でダウンした田淵を、居合わせた私と2年下の加茂真樹マネージャーの2人で部屋に連れていこうと抱え上げたのだが、その瞬間、田淵が急に暴れ出し、私たちは強烈なひじ鉄を食らって吹っ飛ばされ、路上に叩きつけられてしまった。
 法政のスターに怪我をさせてはいけないと、守ろうとしたこちらが負傷してしまったのは不覚だった。

 世間では“貴公子”のイメージだった田淵だが、素顔は意外にお茶目でイタズラも大好きだった。
 田淵がマネージャーの加茂と花札をしていたときのこと。先輩風を吹かせた田淵は「負けたらマジックで顔に書く」というルールを作った。負けが続いた加茂の顔はマジックで真っ黒。たまに勝っても大先輩の田淵の顔に書けるはずもない。
 そのうち睡魔に襲われ、加茂はそのまま寝てしまった。翌朝、寝坊した加茂は大慌てで学校に向かったが、顔はマジックで真っ黒のままだったという笑い話もあった。

 田淵のイタズラには一風変わったものもあり、夜中に全員が寝静まった頃を見計らい、後輩の山中正竹や江本孟紀の部屋に忍び込むと、糸をつけたニンニクを天井から吊るして後輩たちの鼻先にぶら下げた。後輩たちは異様なニオイに悩まされ、寝不足者が続出した。
 また、痛め止めのサロメチールを男のイチモツにタップリ塗り込まれ、カッカして眠れなくなった者も大勢いた。
 風呂場では「背中を洗ってやるよ」と後輩の背後に立ち、そのまま背中に温かい尿をかけるという必殺技も有名だった。後輩は気づかずにそのまま湯船に入るのだが、その横では富田が湯船につけたタオルで顔を気持ちよさそうにゴシゴシ拭いていた。

 イタズラの標的になったのは、やはり後輩たちが多かったが、あるとき、親友の富田も標的になったことがある。
 武蔵小杉に小泉診療所という医院があった。小泉院長はほがらかな人柄のおばさんで、その人柄を慕って人生相談にのってもらう選手も多くいた。
 腰痛持ちだった三羽ガラスもここに通っていたのだが、この医院には私たちの2歳年上で法政二高から巨人に入団した柴田勲も通っていた。当時、その柴田が交際していたのが人気女性歌手の伊東ゆかり。実は、富田も伊東ゆかりの大ファンだったのだ。

 そんなある日、「伊東ゆかり本人から(法大の)合宿所に電話があったぞ。小泉院長から聞いたそうで、『トミさんと会いたい』って言ってたよ」と同級生の苑田邦夫('68年春の東京六大学ベストナイン・外野手)が富田に伝えた。
 純情な富田は舞い上がってしまったが、実はこれが田淵の仕組んだイタズラだった。それを知った富田は見たこともないほどカンカンになっていた。
 お侘びというわけではないが、後に田淵の阪神入団が決まった際、私が企画した激励会のゲストとして本物の伊東ゆかりを小泉医院長の紹介で呼んでもらい、富田にも会わせることができた。
 とにかく、やられるほうはタマったものではないが、それでも最後には「ブチならしょうがないか」と許されてしまう男だった。

 そんな素顔とは裏腹に、グラウンドでの田淵は凄味を増していく。大学1年の春のリーグ戦から出場し、同年秋のリーグ戦までに4本のホームランを放っている。2年生の秋には、長嶋茂雄が持っていた東京六大学野球の通算本塁打記録8本に早くも並んでいた。
 '67年5月、記録更新のかかった対明治戦ではこんなことがあった。田淵の放った打球が神宮球場の右中間を深々と破った。外野がもたつく姿を見た富田がベンチから「ランニングホームランだ!」と叫んだ。
 三塁コーチだった岡本道雄(高知高校監督として'75年選抜甲子園優勝)も、記録を破らせるために左腕を大きく回した。生還できるタイミングだった。
 ところが、田淵は三塁であっさり止まってしまったのだ。三塁コーチの岡本は「ブチ、行けたぞ。何でいかんのや!」と怒ったが、田淵はすまし顔で「やっぱり長嶋さんの記録を超えるのなら、スタンドに入れないと」と言ってのけた。
 しかも次の対慶応戦、田淵は藤原真投手(元ヤクルトアトムズ)の球をレフトスタンドに運んで新記録をあっさり達成してみせた。この試合は延長戦までもつれ、田淵は10号も放ってさらに記録を伸ばしている。
 「ブチのすごいところは翌日にすぐ打てるところだ」
 富田はそう言って田淵の勝負強さに驚嘆した。

 長嶋茂雄と並ぶ通算8本の記録は富田も浩二も達成しているのだが、田淵が22本というとてつもない記録を出したため、ほとんど話題にはならなかった。
 田淵が手の届かないスターになっていくことは、少し怖くもあった。
(次号に続く)

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【スポーツジャーナリスト:吉見健明】
1946年生まれ。スポーツニッポン新聞社大阪本社報道部(プロ野球担当&副部長)を経てフリーに。法政一高では田淵幸一と正捕手を争い、法政三羽ガラスとは同期で苦楽を共にした。『参謀』(森繁和著、講談社)プロデュース。著書に『ON対決初戦 工藤公康86球にこめた戦い!』(三省堂スポーツソフト)等がある。

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