東京六大学史上最強 法政三羽ガラス裏面史(3)

 「勝ちゃん! 起きろ!」
 田淵幸一は棺桶の中で花に囲まれた富田勝の顔を何度もひっぱたき、人目もはばからず号泣した。なかなか棺桶の蓋を閉めさせようとしない田淵の落胆ぶりは、見ていられないほどだった。
 人と話すとき、田淵は富田勝を「トミ」と呼び捨てにしていたが、2人だけの会話になると、「勝(まさる)ちゃん」と呼んでいた。2人は特別な絆で結ばれた親友だった。

 2015年5月、肺がんで死去した富田勝(享年68)の通夜と告別式が大阪市阿倍野区のやすらぎ天空館でしめやかに執り行われた。
 私も参列したが、300人を超える弔問の列には、とうとう法政三羽ガラスの一羽が欠けてしまったという無念さが漂っていた。
 式前の控え室では、明治大学のライバルだった星野仙一や、法政で同期だった山本浩二、1学年下の江本孟紀、山中正竹たちが、田淵を囲んで富田の思い出話をしみじみ語り合っていた。

 田淵と浩二は、亡くなる半年前に抗がん剤治療を続けていた富田を最後に見舞っていた。余命宣告を受けたと聞いて大阪市内の病院を訪ねたのだ。2人はやせ細った富田を見て絶句した。
 すでに腹を決めていたのだろう。富田は「ブチ! 浩二! ありがとう!」と笑ってみせた。心配させないように気を遣う富田に何も言うことができず、2人は肩を落として病院を出るしかなかったという。

 監督時代は選手から“鬼”と呼ばれていた松永怜一監督も、葬儀で弔辞を読みながら号泣した。優勝しても涙ひとつ見せず、翌日から練習を再開し、豪雨の日でも「こんな日も試合があるんだ!」と、決して練習を休まなかった鬼監督が泣いていた。
 松永監督は「ノックができなくなったら監督を辞める」という信念を持っていた。腰痛で選手として現役を引退した松永監督は、マッサージを受けながら毎日ノックを打ち続けていた。
 そのノックを最も多く受けた選手が富田だった。他人から見れば理不尽なスパルタに見えたかもしれない。しかし、闘志をふり絞って球に食らいつく富田と監督の間には、言葉にはできない信頼関係のようなものがあった。
 「おやじ(松永監督)をあそこまで泣かせたのは、トミしかいないよな」
 松永監督の弔辞を聞きながら、改めて富田の大きさを感じたように、田淵がポツリとつぶやいた。

 霊柩車を見送る最前列には、星野仙一が寂しそうに下を向いて涙していた。明治大学野球部のエースだった星野が富田と親しくなったのは「打倒早稲田大学」の共通点があったからだ。
 酒好きだった富田は毎晩のように飲み歩いていたが、そんな男が飲みにも行かず、合宿所の小さな裏庭で深夜に素振りをする時があった。それは決まって対早稲田大学戦の前夜だった。
 当時の早大は油に浸して真っ黒にしたバットを使っており、これが相手に威圧感を与えていた。富田は負けじと自分のバットをドス黒く染め、そのバットを握って深夜の素振りを続けていた。
 「早稲田にだけは負けたくない」
 富田の口癖だった。

 「法政の黄金時代を築いたのは、田淵でも浩二でもない。あの2人を陰で命を張って守った男(富田)がいたからだ。あいつには本当によく打たれたよ」
 星野はそうつぶやいた。星野の後ろでは、浩二が同期の投手だった小林郁夫と並んで思い出を語っていた。
 「トミと俺は、洲本(兵庫・淡路島)でやった法大の新人セレクションで一緒になったんだ。意気投合して、テストが終わった後も大阪でトミの自宅に泊めてもらった。2年の春に合宿所に入ったのも一緒だった。投手から外野に転向して、うまくいかずに落ち込んでいたときはトミがいつも激励してくれよった。初めて『HOSEI』のユニホームをもらったときは、2人でユニホームを抱き締めたよ」
 法政一高時代から田淵とバッテリーを組んでいた小林も「トミは田淵をいじめる上級生にも食って掛かって、人のいい田淵を守っていた。キャプテン田淵に逆らう下級生がいたら、全員整列させて往復ビンタを食らわすようなこともあったけど、不思議と下級生にも慕われていたな」と述懐している。
 この葬儀を裏方として仕切っていたのは、1年下の後輩たちだった。

 富田の武勇伝は三羽ガラスの中でも飛び抜けて熱いエピソードが多い。
 ある日、田淵と富田が例の如く飲み歩いて朝帰りしたところ、部屋には誰もおらず合宿所全体がシンと静まり返っていた。
 2人がほかの部屋を覗き込んでいくと、同級生や下級生が風呂場で正座させられていた。田淵と富田がいないことがバレてしまい、連帯責任として説教を食らっていたのだ。
 覗き込んだ2人もすぐに見つかり、上級生から「お前たちもここで正座しろ!」と命令が下ったが、これに富田が猛反発した。自分の門限破りを棚に上げ、頑として正座を拒み、上級生に食って掛かった。
 「全員を許して正座から解放しなければ、俺は絶対に座らない!」

 富田の態度には理由があった。実は以前から、1年生の江本孟紀や山中正竹らが上級生から理不尽ないじめを受けていたことを知っていたからだ。中でも、特に目をつけられていた江本などは、富田にこんな相談もしていたという。
 「富田さん、4年生は酷いですよ。買い出しとかはしょうがないですけど、1度で済むことをわざと3回に分けて『買ってこい』とか言うんです。あれじゃあ、ただの嫌がらせです」

 もっとも、江本も黙ってやられているタマではない。「コーラ瓶に水を入れてこい!」と命令されると、そのコーラ瓶の飲み口にこっそり自分のションベンを入れていたのだ。富田もこの復讐を打ち明けられたときは、さすがに絶句した。
 「富田さん、これくらいしてもいいでしょ!」
 「おい、この間、俺が頼んだラーメンにはまさか入れてないだろうな」
 「富田さんには、そんなことしてませんよ。黙っていてくださいね」
 富田も暴君のようにふるまう上級生には辟易していたので、江本の話を笑って許したそうだ。

 「理不尽なことは上級生にも食って掛かる――。あれが富田さんのすごいところで、優しいところですよ!」
 後輩たちからは、よくそんな話を聞かされた。
 もちろん、富田も上級生として締める所は締めていたが、それでも江本や山中たちの後輩から慕われたのは、こんな男気あふれるところがあったからだろう。

 三羽ガラスの絆が目に見える形で表れたのが、「富田の暴行事件」だった。
 3人が4年生になった1968年の春、リーグ戦を優勝した法政大学は、日本一を決める全日本大学野球選手権大会に臨んでいた。迎えた準決勝の対愛知学院大学戦(神宮球場)。富田は試合前から「負ける気がしない!」と気合いが入っていた。
 ところが、試合は法政に形勢不利のムードで進み、リードされた中盤に一死満塁のピンチを迎える。相手打者の打ったゴロが、三塁を守る富田の前に来た。ホームゲッツーのチャンスだ。富田はゴロを捕り素早く捕手の田淵に送球した。その瞬間、三塁ランナーがスパイクの刃を田淵に向けたまま猛烈な勢いで滑り込んだ。

 このラフプレーに富田がブチ切れたのだ。
 「ブチに何するんだ!」
 「バカヤロー! 許せねえ!」
 富田はネット裏の観客席まで聞こえる怒声を上げると、脱兎のごとく駆け出し、スライディングした相手選手を捕まえてボコボコに引きずり回した。

 今思えば、あれでよく退場にならなかったと思うのだが、殺気立った空気を帯びたまま試合は続いた。終盤の7回を迎え、相手の先頭打者が浩二の守る右中間を深々と破る当たりを放つ。打球を追いかけてボールを拾った浩二が振り向くと、走者は二塁ベースを蹴って三塁を狙うところだった。
 浩二の渾身の返球は、三塁を守る富田のグラブにストライク。走者はまだ三塁ベースの手前だったが、イチかバチかでヘッドスライディングを敢行した。富田は待ってましたとばかりに身構えると、走者の顔面めがけてパンチと見まがうような強烈なタッチを食らわせた。相手は数メートルも吹っ飛んだ。

 明らかに先ほどの田淵へのラフプレーの仕返しだった。この富田のプレーに愛知学院大学の応援団は爆発寸前となり、スタンドからは、ヤジとすらも呼べないほど露骨な怒声が富田に向けて浴びせられた。
 「テメエ、このまま帰れると思うな!」
 「ぶっ殺す!」

 試合は法政が9対4で勝利したが、球場はこれ以上ないほど険悪なムードに包まれたまま終了した。
 「あのスライディングは許せん! 田淵に怪我させようとしてたじゃないか。俺はどうなってもかまわん。田淵は宝なんだ。許せなかったから、わざと顔面にタッチした。反省してない」
 試合後のロッカーでは富田が1人、吼えていた。
 「俺1人だけでも、愛知学院大の応援団とケンカする。殺されたっていい!」

 外の様子を見に行っていた池田周弘マネージャーが戻り、球場の外に相手校の応援団が待ち伏せしていることを伝え、「トミ、頼むからユニホームを脱いで学生服に着替えて裏門から出てくれ」と頼み込んだが、富田は「逃げるのは卑怯だ。何人でも相手してやる」と聞かなかった。
 富田は法政大野球部の藤田信男部長からも呼び出され、「法政大学野球部の品位をお前1人で潰すな! これから一切暴力行為は許さない」と説教されたが、「野球部をクビになっても俺は逃げたくない!」と拒んだ。
 富田はケンカにかけては負けたことがない。退部してでもケンカする腹を固めていたようだ。
 それでも、「次は決勝だ。トミがいなかったら勝てない。頼む!」という池田マネージャーの必死の説得に、田淵や浩二も加わり、ようやく矛を収めた富田は、法政の学生に囲まれて合宿所へ戻っていった。

 今の風潮なら、決して褒められた話ではないのかもしれない。しかし、チームメートにとっては、これほど頼れる男はいなかった。
 富田勝は、そんな闘志あふれる男だった。
(次号最終章)

【スポーツジャーナリスト:吉見健明】
1946年生まれ。スポーツニッポン新聞社大阪本社報道部(プロ野球担当&副部長)を経てフリーに。法政一高では田淵幸一と正捕手を争い、法政三羽ガラスとは同期で苦楽を共にした。『参謀』(森繁和著、講談社)プロデュース。著書に『ON対決初戦 工藤公康86球にこめた戦い!』(三省堂スポーツソフト)等がある。

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