ハマの番長・三浦大輔引退の独白「ずっとエースを追い続けて…結局、なれなかったな」

ハマの番長・三浦大輔引退の独白「ずっとエースを追い続けて…結局、なれなかったな」

ハマの番長・三浦大輔が25年間の現役生活を振り返った

今はなき横浜大洋ホエールズの最終戦で運命的にデビューした男は、暗黒時代と呼ばれた苦しい時代も、ただ横浜のためだけに堂々と投げ続けた。そして、初のクライマックスシリーズ出場と盛大な引退試合。ハマの番長が25年間の現役生活を振り返った。

「引退を発表してから、横浜の街全体で三浦大輔を送り出していただいて…本当に幸せ者です。成績を見たって、ここまでやってもらえる選手ではないですからね(笑)」

引退試合の数日後、三浦大輔はそう言って24年前の秋の日を思い出していた。

1992年10月7日。横浜大洋ホエールズ最後の日に、ルーキーの三浦大輔は初登板を果たした。スタンドには大洋、そして引退するエース遠藤一彦の最後を惜しむファンが詰めかけたが、三浦には感傷に浸る暇はなかった。

「高校からドラフト6位で入って、周りにはすごい球を投げる投手がたくさんいる。球も遅い、体力もない自分がプロで生きるにはどうすればいいか。とにかく試合に出るために必死でした」

三浦は7回から打者6人を完璧に抑えてデビューを飾ると、そのまま試合後の遠藤の引退セレモニーを目撃する。スタンドからは万雷の拍手と涙まじりの声援が送られ、遠藤は盟友の齋藤明雄と抱き合い大粒の涙を流す。18歳の三浦の胸には熱いものが込み上げていた。

「このときの遠藤さんのセレモニー、そして翌年の明雄さんの引退セレモニーを見て、『いつかこんな引退試合をしてもらえる選手になろう』と思っていました」

若い頃は生き残ることに必死だった。当時の厳しい練習のなかで小谷正勝コーチと共に自身の投球スタイルを築き上げていく一方、1年目のオフには髪型を代名詞のリーゼントにし、そろいのスーツのときでも靴下だけは赤いものをはくなど、人々の印象に残るようにとなんでもやった。

4年目の95年に先発ローテーションに入ると、97年には10勝。翌年には背番号を18に変更して12勝を挙げ、入団以来初の日本一に貢献した。

「ミスして先輩に怒られたり、いろいろなことがありましたけど、優勝した瞬間に選手、コーチ、裏方さん、皆が泣いて喜び合うんです。『優勝するってこんなにいいものか』と思えた年でした。連勝で登板が回ってくるプレッシャーもあるけど、そこで自分が勝って『よっしゃ! 次につないだよ』って。厳しかったけど、楽しい時代でしたね」

史上最強のマシンガン打線を擁するベイスターズには黄金時代が来るはずだった。しかし、現実には2005年の3位を最後に、最下位が指定席のチームに転落していく。

「98年のメンバーだった誇りは今もあります。あのときは(石井)琢朗さんや谷繁(元信)さんなど、20代後半の脂の乗った世代が中心で、『これから横浜の時代だ!』と思っていましたが、1年たち、2年たち、3年ぐらいしたら優勝メンバーのほとんどがいなくなってしまった。

自分も30歳を超えて、『俺がやらなきゃ』という立場になった。でも、チームは勝てない。何かを示さなければ。そう思ったとき、先輩たちの堂々としていた姿が頭に浮かんだんです。どんなに負けても、何があっても俺が下向いて弱いところを見せちゃいけない。そう決めたんです」

それは受け継いだエースの誇りだった。しかし誰もが認めるエースでも、三浦はついに“エース”の称号を自ら受け入れることはなかった。

「エースって簡単なものじゃないですよ。1年だけじゃない。3年、4年と続けて結果を残し、誰からも認められる存在。俺なんて、2桁勝ったのも数回だけです。三浦がエースだと言ってくれる人もいましたが、胸張って『俺がエースです!』とは言えない。ずっとエースを追い続けて…結局、なれなかったな」

それでも横浜にこだわり続けた男は、次第にベイスターズそのものになっていく。チームを愛し、チームに愛され、そして何よりもファンに愛されたハマの番長の引退インタビューは発売中の『週刊プレイボーイ』44号で全文を掲載。是非ご覧いただきたい。

(取材・文/村瀬秀信 撮影/ヤナガワゴーッ!)

■週刊プレイボーイ44号「三浦大輔(横浜DeNAベイスターズ) 引退インタビュー&ノンフィクション」より

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