甲子園「伝説のジャイアントキリング」激闘プレイバック

甲子園「伝説のジャイアントキリング」激闘プレイバック

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「10回やれば9勝1敗になる」といわれる対戦カードでも、その1回が起きてしまうのが、この夏の大舞台。球場がどよめき、そして大いに沸いた3試合を振り返る!

 ジャイアントキリング=大物食い、番狂わせ。たびたびスポーツの場面で目にするが、特に一発勝負の夏の甲子園では、頻繁に起こっている。今回は、高校野球史に残るジャイアントキリングを紹介しよう。

 第74回大会(1992年)の中心は帝京(東東京)だった。その年のセンバツを制覇し、地方大会でも全試合で10点以上を取った打線は破壊力抜群。さらにエースの三沢興一(元巨人など)を中心にした守りも鉄壁と、ほぼ死角は見当たらなかった。

 この帝京と1回戦で当たったのが香川の尽誠学園。伊良部秀輝(元ロッテなど)や谷佳知(元オリックスなど)らを輩出した名門校だが、この大会の前評判は決して高くなかった。当時、正捕手だった馬生天都二氏は、そのときのチーム状況をこう振り返る。

「なんで優勝候補を引くんだって(笑)。だけど大河(賢二郎)監督に、“俺の野球人生の中で3連敗したことはない! 絶対に勝てる!”ってハッパをかけられたんです。過去、尽誠は甲子園で帝京に2連敗していたんですよね。大河監督の言葉で“やるぞ”って気持ちになりました」

 試合が始まると、馬生氏はマスク越しに帝京の“凄さ”を感じていた。「1番から9番までセンスがあった。大きな外野フライを何本も打たれて。この年からラッキーゾーンが撤廃されたんですけど、もしラッキーゾーンがあったら、何本かホームランだったかもしれません」

 初回、2回とエース・渡辺隆文が帝京打線を抑えると、2回裏に渡辺のバットから先制点をもぎ取った。2回以降は、渡辺と三沢による白熱した投手戦が繰り広げられる。

「毎回のようにピンチを背負っていましたが、渡辺がうまく抑えてくれました。とにかく必死にやっていたんですが、あの試合で覚えていることがあるんです。甲子園って、攻守交代を早くしなきゃいけないんですが、そのときの審判の方は“ゆっくりでいいよ”って言ってくれたんです。ありがたかったですね」(馬生氏)

 冷静な尽誠バッテリーに対し、帝京ナインは焦り始めていた。「流れはこっちにあるなと。相手が焦っているのが分かっていました。変なタイミングでタイムを取ったりもしていたので」(馬生氏)

 大振りが目立ち始めた帝京は、渡辺を打ち崩すことができない。スコアは、そのまま1-0で、尽誠が帝京の春夏連覇の夢を打ち砕いたのだった。

「勝った瞬間、優勝したかのように泣きました。その後、僕らはベスト4まで勝ち上がるんですが、帝京が一番強かった。だから、楽に戦えましたね。僕らは、監督さんからは“今までで一番弱い”と言われていたんですが、飛び抜けた選手がいない分、一丸となれたんだと思います。今でも、よく勝ったと思いますよ」

 スポーツジャーナリストの手束仁氏は、「大河監督は試合前に“勝つとしたら1-0か2-1だ”と言っていたんです。だから、イメージ通りの試合だったんですよね」と解説する。思っていた展開と、思いもよらない展開。その気持ちの差が、番狂わせを生んだのかもしれない。

 第87回大会(05年)も波乱の大会だった。大阪桐蔭や駒大苫小牧(南北海道)と並んで優勝候補に挙げられていたのが、同年のセンバツ優勝校の愛工大名電(愛知)だった。だが、名電の正捕手だった井坂遼輔氏によると、チームの状態は春に比べて良くなかったという。

「燃え尽き症候群になっていて、練習試合でも勝てなくなったんです。地方予選が近づいて、ようやく自分たちの野球はできるようになったんですが……」

 当時の名電は、4番に堂上直倫(中日)、2番に柴田亮輔(元オリックス)が座り、控え投手には十亀剣(西武)がいるというスター軍団だった。春夏連覇の可能性は高い。そう見られていた名電の1回戦の相手は、初出場だった長崎の清峰(せいほう)だった。「名電の倉野光生監督は“きよみねって、どこにあるんだ”って、記者に聞いたそうです」(手束氏)

 井坂氏も、「正直、隣のブロックの愛媛の済美(04年選抜優勝)や、3回戦で当たる可能性が高かった大阪桐蔭のことを考えていましたね」と、初戦で負けることは考えていなかったというが、次第に“王者”に重圧がかかっていく。

「グラウンドに入る直前、センバツの決勝で戦った神村学園(鹿児島)の選手たちが来ていて、“頑張れよ”と声を掛けてくれたんですね。甲子園に出られなかったのに、鹿児島から来てくれて、注目度の高さを感じましたね」(井坂氏)

 勝って当たり前。そんな空気の中で始まった試合は、名電の斉賀洋平と清峰の古川秀一(元オリックス)が投げ合い、4回まで0-0。試合が動いたのは5回。斉賀が二死から3連続四球と制球を乱したのだ。

「この回の失点は、ショートのユニフォームの中にボールが入って内野安打になるという不運なものでした。6回にも、振り逃げで一塁に投げる間に三塁ランナーに生還されてしまって。流れはうちにないかなと思っていました」(井坂氏)

 常に追いかける展開も、すぐに追いつき、2-2で終盤を迎える。名電は十亀にスイッチしていたが、清峰は古川が投げ続けていた。

「僕らは後半に強かったんです。どんな投手でも、100球を超えたら打てた。だけど、古川君は130球を超えても打てない。焦りはありましたね」(井坂氏)

 試合は戦前の予想を覆し、延長戦に突入する。名電はサヨナラのチャンスで決めきれない。「10回と12回に連打でチャンスを作るんですが、打撃がダメな十亀に回っていたんです」(井坂氏)

 チャンスをつぶして迎えた13回表、清峰は二死ながら二、三塁のチャンスを作る。打席には9番の古川。「古川君は、打撃はからっきしだった。だから、心の中では“安パイ”だと思っていて、ストライクを取りにいった球をセンター前に打たれてしまった。悔いが残る一球でした」

 エースが打ち、流れは完全に清峰。反撃もできずに2-4で名電は敗れた。「監督が作った言葉に“全勝せんとすればできず1勝にかける者自ずから全勝に至る”というものがあるんです。まさに、この言葉通りでしたね」(井坂氏)

 何が起きるか分からない。それが甲子園なのだ。

 第95回大会(13年)で旋風を巻き起こしたのが、日大山形だった。奥村展征(ヤクルト)を擁し、強力打線を武器に山形大会を勝ち抜いたものの、大会前のスポーツ紙の評価はオールB。そんな日大山形の初戦(2回戦)の相手は、優勝経験のある“オールA”日大三(西東京)に決まった。

 日大山形の5番を打っていた吉岡佑晟氏に、4年前の一戦について話を聞いた。「正直、“そこか……”と思いましたけど、春に日大三と練習試合をして負けていたから、“リベンジマッチだ”と切り替えていました」

 それまで山形県勢は7年連続で初戦敗退。ネームバリューだけで日大三有利と見る向きも少なくなかった。「試合前に(荒木準也)監督から、“勝てると思っているのは、俺たちと俺たちの親だけだ。ひっくり返してやろう”と言われて、燃えました」(吉岡氏)

 その言葉通り、試合は1回表に日大山形が先制攻撃。「相手の投手のエラーで出塁して、4番の奥村が2ランを打ったのが大きかったですね」(吉岡氏)

 だが、その裏、日大三は2番の稲見優樹のソロホームランで1点を返し、さらに満塁のチャンスを作る。「このピンチを日大山形は抑えた。試合後に小倉全由監督が“初回に勝ちこさないといけない”と話したように、この回の攻防が勝敗を分けました」(手束氏)

 日大山形のエース・庄司瑞は、四球を出すも踏ん張っていた。2-1のまま迎えた7回。日大山形打線が火を噴いた。

「最初はもちろん緊張していました。山形の決勝は人があまりいなかったけど、甲子園はお客さんも多くて(この日は4万6000人)、地鳴りが凄かったんです。だけど、7回になって、甲子園の雰囲気にも慣れてきていました」(吉岡氏)

 この回、一挙に5点を奪うと、“いつかは日大三が逆転するだろう”という球場の雰囲気は一変する。「それ以降は、ファーストを守っていても、相手の動きが鈍かったし、庄司も、こっちを見る余裕ができていました」(吉岡氏)

 庄司の粘りの投球にバックが盛り立て、最後は危なげなく7-1で快勝。日大山形の校歌が甲子園に響いたのだった。

「それまでの目標が甲子園ベスト4でしたが、3回戦の作新学院(栃木)戦の前に、監督から“日本一を目指そう”と言われました」と吉岡氏が話すように、日大山形の実力は本物だった。3回戦の作新、準々決勝も明徳義塾(高知)と名だたる強豪校を次々と撃破。準決勝で、優勝した前橋育英に敗れるも、山形県勢初のベスト4まで進んだ。

「日大三に勝てたのが自信になって、ベスト4までいけました。今後、後輩たちには優勝してほしい気持ちもありますが、自分たちの記録を超えてほしくない気持ちもありますね」(吉岡氏)

 今年の夏も激闘が繰り広げられているが、決勝戦へ向け“筋書きのないドラマ”が生まれるか――。

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