【プロ野球】常勝・阪急の上田利治、寝技師・根本陸夫、つなぎ役・阿南準郎ら、無名選手から監督で開花した名将たち

【プロ野球】常勝・阪急の上田利治、寝技師・根本陸夫、つなぎ役・阿南準郎ら、無名選手から監督で開花した名将たち

無名選手から監督で開花した名将たち

 7月1日、阪急、オリックス、日本ハムで監督を歴任した上田利治氏が亡くなった。近年でも雑誌などのインタビューで元気な姿を見せていただけに、突然の訃報に関係者とファンは驚いた。

 上田氏といえば阪急監督時代には日本シリーズ3連覇を成し遂げ、オリックス時代には「ブルーサンダー打線」、日本ハム時代には「ビッグバン打線」と強力打線を形成。「ええで、ええで」と選手を褒めて乗せる「ええで節」は氏の代名詞にもなった。

 また、上田氏で忘れてはならないのは、現役時代は無名ながらも指導者として成功した点だ。

 関西大時代は後の阪神のエース・村山実とバッテリーを組み、卒業後は広島に入団するも3年で現役引退。20代半ばでコーチとなり、指導者人生をスタートさせた。

 スター選手が監督に就任する傾向が強い日本プロ野球界にあって、上田氏のようなキャリアの持ち主は貴重な存在だった。

 今回は、上田氏のように、現役時代は無名でも監督として実績を残した男たちを挙げてみたい。

(以下、文中一部敬称略)

※野球の見方が変わるスマホマガジンでニュースやコラムが読み放題!

■常勝チームの礎を築いた根本陸夫

 上田氏が広島でコーチを務めたとき、監督だったのが後に「球界の寝業師」と呼ばれる根本陸夫だった。

 近鉄で捕手として6年間プレーした後、近鉄のスカウト、コーチを経て、1967年に広島のコーチを務め、1968年に広島の監督に就任。監督1年目で3位となり、同球団初のAクラス入りを果たす。その後はBクラスが続き1972年シーズン途中で休養。そのまま辞任した。

 それでも、監督在任中に山本浩司(当時の登録名)や衣笠祥雄らを鍛え、その選手たちが1975年のリーグ初優勝や、1979年、1980年の連続日本一に貢献し、広島は常勝チームとなった。

 根本はその後も1978年から1981年までクラウンライター、西武。1993年、1994年とダイエーで監督を務める。両チームとも後を受けた広岡達朗(西武)、王貞治(ダイエー)がそれぞれ日本一になるなど、広島時代と同様に常勝チームの基礎を作った。

 そして、西武、ダイエーともに監督退任後は、それぞれの球団のフロントで手腕を発揮したことも忘れてはならない。

■「つなぎの監督」として結果を残した阿南準郎

 1986年、広島を3度の日本一に導いた古葉竹識に代わって監督となったのが、長年、広島でコーチを務めた阿南準郎だった。

 阿南は1956年、佐伯鶴城高から広島に入団。二塁、三塁、遊撃を守り、1964年には主に二塁のレギュラーとして137試合に出場。古葉と二遊間を組んだ。前出の根本が監督に就任した1968年に近鉄へ移籍し、1970年限りで現役を引退した。

 阿南が監督になったのにはわけがある。現役最終盤を迎え、将来の監督候補と目されていた「ミスター赤ヘル」こと山本浩二が監督に就くまでの「つなぎ役」として監督を任されたのだった。

 監督1年目は巨人との激しい優勝争いに競り勝ち、リーグ優勝を成し遂げる。西武との日本シリーズでは第1戦に引き分けた後、第2戦から3連勝。日本一にあと1つまで迫るも、そこから4連敗。日本一を寸前のところで逃してしまった。

 1987年、1988年は2年連続3位とAクラスをキープし、「つなぎ役」だけではない監督としての手腕を発揮した。1988年限りで監督を退き、当初の予定通り山本に監督をバトンタッチした。

■将来が期待される楽天・平石洋介2軍監督

 最後に、現在のプロ野球界で、上田氏のように監督としての将来が期待される指導者を紹介したい。楽天の平石洋介2軍監督だ。

 平石2軍監督といえばPL学園高時代にキャプテンとして3年春夏の甲子園に出場。夏の準々決勝では、松坂大輔(ソフトバンク)擁する横浜と延長17回に死闘を繰り広げた。この試合で、平石は三塁コーチズボックスから横浜の捕手・小山良男(中日コーチ)の構えから松坂の球種を見抜くなど、重要なキーパーソンとなった。

 高校卒業後は同志社大、トヨタ自動車を経て2004年、誕生したばかりの楽天にドラフト7巡目で入団。7年間プレーした後、2012年から2軍外野守備走塁コーチ、1軍打撃コーチなどを歴任した。

 そして、昨季、2軍監督に就任した。平石は楽天にとって球団初となる生え抜きの指導者。様々なコーチを務めた上に、2軍監督で経験を積み、将来の1軍監督候補として大いに嘱望されている。

文=武山智史(たけやま・さとし)

【関連記事】

関連記事(外部サイト)