「板東英二」の副業への執念と破天荒さ、背景には凄絶な生い立ちが(小林信也)

「板東英二」の副業への執念と破天荒さ、背景には凄絶な生い立ちが(小林信也)

板東英二(1964年)

 板東英二に、どうしても会って話を聞きたいと思ったのは、若かりしプロ野球選手時代の、信じられない逸話を知らされたからだ。

 中日ドラゴンズの主力投手として活躍する一方で、板東は副業の経営に熱心だった。現役時代から商売に精を出すなど“ご法度”だったはずだが、そんな常識には縛られなかった。

「入団した年のオープン戦で打席に立ち、南海の杉浦投手のボールを見たとき、プロはこんな凄い球を投げるのか。自分は絶対に活躍できないと悟った」

 と後に語っている。力量を知った板東は「野球以外に稼ぐ方法を見つけなければ」と考え、実行した。

 入団1年目のオフには牛乳配達店の権利を買い取り、経営者となった。日々の仕事は実兄に任せた。

 やがて、名古屋市内に4階建てのビルを買った。この中にサウナやナイトクラブを作ってオープンさせた。予算もないから、内装など自分も手伝って突貫工事をした。ぎりぎりで開店日に間に合わせるため、板東は甲子園遠征を仮病でサボり、名古屋にとどまった。そんな話をテレビ番組で喋る板東を見て、衝撃を受けた。

 型破りな行動を、芸人たちは大きな笑いに換え、スタジオは爆笑に包まれた。が、私には、その時代、そこまでリスクを冒して副業に傾注する板東の心の奥に何があったか、ただならぬ迫力を感じた。

 社会の認識が変わり、スポーツ選手が引退後の人生設計を予め準備する大切さが叫ばれている。だが、いまもなお一途な生き方が称賛される風潮は根強い。しかも、団体行動を基本とするプロ野球界で、個人の自由は恐ろしく制約されている。2年前、松坂大輔(当時中日)が治療で休んだ日にゴルフコースに出て非難を浴びた。そういう未開の領域を、60年も前に板東は先んじて歩いていた。


■甲子園で前人未到記録


「王さんが“片足打法”を採り入れたとき、最初にスローボールを投げてタイミングを外しにいったのはオレなんや」

 やはりお笑い番組で板東が自慢したことがあった。「それ、卑怯でしょ」と突っ込む芸人たちに板東は、

「その勇気が大変なんだよ」

 勇気。そう、板東英二には勇気があった。

「絶対に打たれない秘策がある」と豪語し、王を敬遠で歩かせた逸話もある。板東にはそういう人を食ったところがある。そして、必ずオチを用意して笑いをとる。この時は、3番・王敬遠に怒った4番・長嶋に痛打されたオチがある。

 しかし、板東は決して、二流の投手だったわけではない。むしろ一流だった。

 高校時代、徳島商のエースとして第40回夏の甲子園で準優勝。準々決勝の魚津高戦は延長18回引き分け再試合となり、板東・村椿の投げ合いは語り草になった。この試合で記録した25奪三振と大会通算83奪三振は、いまも夏の甲子園の最多記録である。

 プロ野球でも、11年間で77勝をマークしている。10勝以上も5回。通算投球回数1220・2回に対して与四球はわずか332、与死球は24。これは特筆に値する少なさではないか。


■握りしめた母のもんぺ


 板東に会いたいと願い、何度かコンタクトをしたがなかなかご縁がなかった。その後、どうやら体調が芳しくなく、外部との接触を断っていると知った。

 私は、資料を頼りに板東の行動の原点を追いかけることにした。手がかりはすぐに見つかった。板東には、『赤い手』(青山出版刊)という、1998年10月に出版された自伝的小説がある。

 読み始めてすぐ、それが板東英二の筆舌に尽くしがたい少年時代の体験を綴った物語だとわかった。すべてを笑いに換えて生きているのは、それしか前を向く手がなかったからだろう。振り返って心の傷に目を向けたら、救いのない思いに体が支配される。前を向くには、今日の食い扶持を案じる必要のない、確かな収入が不可欠だった。

〈「英坊、立ち上がるのよ!」

 母の声に慌てて起き上がり、再び汽車を追う。……、どうか、どうかあともう少し、速度を上げないで……。心の中で祈りながら、英二は右手を差し出して必死に追いすがった。〉

 表紙を開いた片袖にそんな文章が記されている。動き出した列車に乗りそびれ、追いかけた時の記憶だ。

 板東は戦争中の40年、満州国に生まれた。終戦後、母と3人の兄姉と命からがら引き揚げてきた。満州から博多へ、8カ月に及ぶ帰還の旅は、常に死と背中合わせだった。道中、一番幼い子をやむなく置き去りにする親の姿も何度か見た。いつ自分もそのように捨て置かれるかわからない。恐怖に怯えながら、6歳の英二は片時も〈握りしめた母のもんぺを離さなかった〉と綴っている。

 引き揚げ船内でコレラが流行り、死んだ大人や子どもが海に捨てられる。

〈「もしかしたら自分だったかもしれないなあ……」

 海上に漂う毛布にくるまれた遺体を見ながら、英二はぼんやりと感じていた。〉

 日本に戻ってからも、赤貧の少年時代が続いた。

 粘り強い投球と、破天荒な笑いの彼方には、そのような痛切な歴史が隠されていた。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。「ナンバー」編集部等を経て独立。『長島茂雄 夢をかなえたホームラン』『高校野球が危ない!』など著書多数。

「週刊新潮」2021年3月18日号 掲載

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