大洋入団を拒否した早大内野手が暴漢に襲われた…ドラフト史に残る“三大事件”

大洋入団を拒否した早大内野手が暴漢に襲われた…ドラフト史に残る“三大事件”

「田沢ルール」が生まれたのは、2008年。新日本石油ENEOSの田沢純一がメジャー挑戦を表明したことがきっかけだった

 今年で57回目を迎えるドラフト会議。過去には、“超目玉選手”の獲得をめぐり、社会的に波紋を呼んだ事件も起きている。ドラフト史に残る三大事件を紹介する。


■前代未聞の“荒川事件”


 指名選手が暴漢に襲われるという“前代未聞”の事件が起きたのは、1970年1月5日の夜。前年のドラフトで大洋に1位で指名されるも、入団を拒否していた早大の内野手・荒川尭が愛犬を連れて自宅付近を散歩中、突然後ろから何者かに棍棒で頭と左手を殴りつけられた。

 犯人はそのまま逃走し、荒川は後頭部と左手甲に全治2週間の打撲傷を負った。大学通算19本塁打を記録した荒川は、父・荒川博がコーチを務める巨人と神宮球場を本拠とするアトムズを逆指名していたが、アトムズは指名順9番、巨人は11番と出遅れ、3番くじを引いた大洋が荒川を指名した。

 同じセの在京球団とあって、「よりによって、最も断りにくい球団」と悩んだ荒川は、入団を拒否したまま年を越していた。これらの事情から、警察は「大洋拒否を恨んだ者の犯行」とみて捜査を開始したが、現在に至るまで犯人はわかっていない。

 その後、大洋側が荒川に対し、ヤクルト(70年1月にアトムズからヤクルトアトムズに改称された)への三角トレードを持ちかけ、交渉期限が切れる2日前の同年10月7日に大洋と契約。12月26日にヤクルト移籍が実現した。

 しかし、荒川は「ドラフト破り」と野球協約違反に問われ、ペナルティとして開幕から1ヵ月間、公式戦出場停止処分を受けた。一連の騒動は、“荒川事件”と呼ばれている。

 ヤクルト2年目に18本塁打を記録した荒川は翌73年、殴られた後遺症から左目の視力が低下。回復しないまま75年に現役引退した。筆者は以前、実業家に転身した荒川氏を取材する機会に恵まれたが、“運命のドラフト”から幾星霜を経て、「ドラフトでは、指名された球団に素直に入るべきだね」と語っていたのが印象的だった。


■ごり押しをする=「エガワる」


“50年に一人の逸材”江川卓の獲得を狙う巨人が、ドラフト前日に江川と電撃契約し、世間を驚かせたのが、78年の“空白の一日事件”だ。

 前年のドラフトでクラウンに1位指名された江川は、巨人入りを熱望して入団拒否。翌年のドラフトで巨人入りを目指し、“一浪”して米国に留学した。

 だが、確実に指名できる保証のない巨人は、ドラフト前日の11月21日に江川との契約を強行する。指名選手と交渉できるのは、翌年のドラフトの前々日までと定められた当時の野球協約の盲点をついたもので、ドラフト前日の江川はフリーになり、どの球団とも契約できるという解釈だった。

 しかし、この日は調整のために設けられた予備日であり、江川との契約は、明らかにドラフト破り。鈴木龍二セ・リーグ会長も「契約は無効」と却下した。

 これを不服とした巨人側は、翌日のドラフト会議出席をボイコット。ドラフトは、11球団で行われ、江川は4球団競合の末、阪神が交渉権を獲得した。これに対し、巨人は「12球団全員出席の下でないドラフト会議は無効」と提訴したが、12月21日、金子鋭コミッショナーは「巨人の提訴却下、江川の入団交渉権は阪神に」の裁定を下す。

 ところが、江川の“二浪”を球界全体の損失と考えた金子コミッショナーは翌22日、「江川を阪神に入団させたあと、速やかに巨人にトレード」と要望。この結果、小林繁との三角トレードが成立した。

 世間は小林に同情し、強引な形で巨人入団を実現した江川は、「エガワる」(ごり押しをする)という言葉も生まれるなど、激しいバッシングを受けることになる。


■きっかけは「指名回避要望書」の送付


 日本のドラフトを経ずにMLBと契約した選手にペナルティを科す「田沢ルール」が生まれたのが08年だ。

 同年の都市対抗優勝投手で、新日本石油ENEOSの右腕・田沢純一が9月11日、メジャー挑戦を表明し、全12球団に「指名回避要望書」を送付したことがきっかけだった。

 これに対して、NPB側は10月6日、日本プロ野球の人気低下を防ぐなどの目的から「日本のドラフトを拒否して海外のプロ球団と契約した選手は、当該球団を退団したあとも一定期間(大卒・社会人は2年間、高卒は3年間)NPB所属球団と契約できない」とする新ルール(田沢ルール)を決定した。

 だが、田沢本人は「騒動になるかもとは聞いていたが、ルールが変わってしまうとは想像もしなかった。(退団後)日本に帰ってくるとは考えていなかったし、そういうふうになったんだという感じ」と至ってクールだった。

 ドラフトで全球団が指名を回避したあと、田沢は同年12月にレッドソックスと契約。13年に上原浩治とともにワールドシリーズ制覇に貢献するなど、実働9年で通算21勝26敗4セーブ89ホールドの成績を残した。

 その後、「田沢ルール」は昨年9月5日、NPB側が自主的に撤廃。これにより、当時BCリーグ・埼玉に所属していた田沢も同年のドラフトで指名可能になったが、34歳という年齢もあり、指名する球団はなかった。

 実は、田沢は当初「何が何でもメジャー」というわけではなかった。「今の自分の力では、NPBで通用しないのではないか」と悩んでいたときに、レッドソックスから「3年育成プラン」を提示され、心を動かされたのが決め手になったという。

 結果論だが、12年のドラフトで、日本ハムが当時メジャー志望だった大谷翔平に育成プランを示したのと、同様のアプローチをする球団が現れれば、田沢はメジャーに行かなかった可能性もあり、「田沢ルール」も生まれていなかったかもしれない。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2020」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮取材班編集

2021年10月5日 掲載

関連記事(外部サイト)