巨人「大勢」 高校は駅伝の名門、大学時代は右肘のケガから如何にして復帰したか

巨人「大勢」 高校は駅伝の名門、大学時代は右肘のケガから如何にして復帰したか

翁田大勢

 読売ジャイアンツのドラフト1位ルーキー右腕・翁田大勢(登録名・大勢)がその名の通り、大きな勢いに乗っている。開幕からクローザーを任されると順調にセーブを積み重ね、5月13日現在で14セーブをマーク。2位に4つの差をつけているのだ。

 だが、大活躍の一方で、アマチュア時代の大勢は中央球界ではあまり知られていない存在であった。プロ入り前の彼はどのような投手だったのだろうか。

 1999年6月、兵庫県で生まれた大勢は小1で軟式野球を始め、中学時代はボーイズリーグに所属。15年春に高校に入学するが、進学先は高校駅伝界では超強豪として名を馳せる県立西脇工業だった(年末の全国高校駅伝では歴代2位の優勝8回を誇っている)。野球部の実力は県内中堅クラス。だが、13年に夏の甲子園出場を果たしている(2回戦敗退)。そしてそのときのエースが大勢の4学年上の兄・勝基だった。

 兄の後を追って西脇工の門を叩いたが、投手として主戦の座についたのは2年秋のこと。それまでは打撃センスを見込まれ、1年夏の県大会から4番・ファーストのレギュラーに抜擢され打率5割。2年夏はレフトを守り、3割5分7厘をマークしているが、奮闘虚しく2年連続でチームは敗退した。ここで大勢の打者としての素質を表すエピソードを1つ挙げるとすれば、2年夏に敗れた神戸国際大附との一戦だろう。延長10回、4-5での惜敗だったが、このときの相手エースは現在チームメイトでドラ1の先輩でもある、平内龍太だった。その平内から大勢は3回裏に勝ち越し打となる痛烈な左前適時打を放ち、マウンドから引きずり降ろしているのである。

 2年秋に結成された新チームでようやく“投手・大勢”が誕生するが、このときは登板の機会なく、秋の県大会2回戦で敗退。投手としての実力の一端が明らかとなるのは3年春の県大会まで待たなければならなかった。1回戦で夏の甲子園優勝経験もある名門・東洋大姫路と激突。この強敵相手に4安打完封の快投を披露し、7-0の8回コールドで完勝したのである。この好投で一躍注目されると、続く2回戦ではプロ6球団のスカウトが集結することに。対戦相手は同年春の選抜4強・報徳学園。春夏の甲子園で通算3度の優勝を誇る難敵を前に初回から142キロの直球を連発。ボールにも角度と重量感があり、ドラフト候補と呼べる球だったが、報徳打線はしっかりとコンタクトしてきた。3回裏に上位打線に3安打を集中されるなど、3点の先制を許すと、7、8回裏にも適時打を浴びてしまう。特に現・広島東洋カープで当時は2年生で3番を任されていた小園海斗には2安打を喫している。うち、1本はセンターの頭上を超える三塁打となり、完全にレベルの違いをみせつけられてしまった。結局、完投したものの、1-7の完敗に終わっている。それでも最速145キロをマークした点は1つの収穫であった。


■4年秋のシーズンで結果を残さなければならず


 兄に続いて自分も甲子園へ。3年夏のラストチャンスを迎えたが、その挑戦は5回戦で幕を閉じることとなる。名門・育英との一戦で先発し、7回3安打1失点と好投するも頼みの打線が沈黙。4番打者だった大勢も自分のバットで“投手・大勢”を援護出来ず、0-2の完封負けであった。それでも初戦の東洋大姫路戦で当時自己最速となる147キロを計測し、7回コールド10-1の完投勝ち(奪三振1、与四死球6)を収めるなど、投手として非凡な才能を発揮しつつあったのである。この後、プロ志望届を提出するも、ドラフト指名にかからず。1学年上の武次春哉(日本生命)が在籍する関西国際大学(阪神大学野球連盟に加盟)へと進学したのだった。

 大学では19年の2年春からベンチ入りを果たし、リーグ戦に3試合登板。3回を投げ被安打3、5奪三振、自責点1という数字を残すと、エース・武次のケガもあり、秋のリーグ戦では先発2番手の座を任されることとなった。待望のリーグ戦初勝利は大阪体育大との2回戦。8回2/3を投げ、被安打7、12奪三振、4失点という力投だった。結果的にこのシーズンは全15戦中5試合に先発。計41回で被安打24、45奪三振(奪三振率9.88)、与四死球25、自責点11で2勝1敗、防御率はリーグ2位の2.41という好成績でいきなり投手十傑入りを果たす大活躍をみせたのである。

 翌年3月には阪神タイガース2軍との練習試合で、4回3安打2失点5奪三振という好成績を挙げた。チームメイトの誰もがこのまま将来のエースになると信じて疑わなかったが、好事魔多し。直後の3年春のリーグ戦がコロナ禍で中止になると、同年秋は右肘炎症のため、登板なしとなった。4年春にようやく戦列に戻るも、今度は右肘を疲労骨折。リリーフ登板した1試合だけで再び離脱してしまう。この段階で大学時代の実績は2年秋のみ。つまりドラフトにかかるには最後の4年秋のシーズンで結果を残さなければならなかったのである。

 是が非でも早期復帰したい大勢は保存治療を選択。その甲斐あって、最後のリーグ戦では主に先発2番手として復活を果たした。大阪産業大との2回戦では延長10回タイブレークのすえ、4-5で敗れたものの、自己最速となる157キロを叩き出し、14奪三振、188球で完投した。さらに大きかったのは新型コロナの影響で見送られていたスカウト陣の視察が解禁された大体大との1回戦である。全12球団44人のスカウトがネット裏に陣取るなか、被安打4、与四死球6、14奪三振で8-2の完投勝利を収めたのだ。結果的にドラフト前にスカウト陣の前で登板出来たのはこの1試合のみ。一発勝負に強いところをみせつけたのである。最終的にこのシーズンは7試合に登板し、計39回1/3を投げ、2勝1敗、55奪三振(奪三振率12.58)、防御率1.60で4季ぶりに投手十傑入りすると同時に特別賞を受賞したのであった。


■スカウトからの高い評価


 スカウトから181センチ88キロの恵まれた体格から投げ込まれる威力のある直球が魅力のパワー型ピッチャーとして「モノが良くて球が強くてポテンシャルがある。荒削りなだけに、伸びしろしかない」との高い評価を受けていた。大学1年時にサイド気味のスリークォーターに変えた投球フォームも「横手気味であれだけスピードが出るのは武器。上位候補の一人」と高評価だった。そんななか、最も熱い視線を送っていたのが、他ならぬ読売のスカウトだったのである。「力のあるストレートが魅力のサイドスロー右腕。馬力があり、落ち球のフォーク2種類とチェンジアップが武器。即戦力として先発ローテーションに入れる素材」とドラフト数日前に外れ1位候補としていたのだ。

 そして、実際4球団が競合した隅田知一郎(埼玉西武)の抽選を外した読売から1位で指名された。当初、球団側はローテーション投手として育てていくつもりだったが、原辰徳監督がオープン戦途中で方針転換。1イニングを任せたときの無双ぶりに「リリーフの方が合っている」と判断したわけだが、まさにその英断が“吉”と出たのだ。実は読売のドラ1投手がルーキーイヤーからいきなり1軍で活躍するのは12年の菅野智之以来である。このときの菅野は惜しくも新人王を逃しているが、このままセーブを積み重ねていけば、大勢の新人王がグッと近づく。同時にそれはチームの2年ぶりのリーグV奪回にもつながるはずだ。

上杉純也

デイリー新潮編集部

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