「村田兆治 逮捕」で世の中の反応が二つに分かれるワケ

「村田兆治 逮捕」で世の中の反応が二つに分かれるワケ

村田氏逮捕 世論分かれる訳

「村田兆治 逮捕」で世の中の反応が二つに分かれるワケ

1990年、40歳で引退した村田兆治氏

■「暴走老人」「信じられない」


 村田兆治氏(72)が羽田空港の保安検査場で逮捕された一件は大きく報じられた。

 23日、金属探知機に何度もひっかかったことをきっかけに職員と押し問答となり、相手の肩を押したというのが事件の概要である。

 折しも国葬を目前に控え、国内での警戒レベルも上がっている中、こんなことでもめること自体、褒められたものではない。本人も反省の意を示しているという。

 もっとも、このニュースを聞いての反応は大きく分かれるようだ。

「高齢者特有のキレやすさなんだろうが、まさに暴走老人。許せない」という人もいれば、「あの村田さんがそんなことをするとは信じられない」という人もいる。歌手の和田アキ子は「穏やかな方」、徳光和夫は「ジェントルマン」と、それぞれ自身の番組で村田氏の人柄を評していた。

 和田アキ子、徳光和夫同様、後者の「あの村田さんが」派の多くは、現役時代を知る世代かもしれない。

 逮捕の一報では「元ロッテのエースで、通算215勝の大投手」というくらいしか紹介されていないが、そのキャリアは多くの尊敬を集め、ある時期、球界でも特別な存在として輝いていたのだ。

 彼の全盛期は現在とは比べ物にならないくらい巨人軍がプロ野球界の人気を独り占めしていた時代。特にパ・リーグの人気はまだまだで、若い女性が神聖なるグラウンドで「きつねダンス」などを披露して注目を集めるなんてことは考えられなかった。

 今よりもはるかに、プロ野球が「男臭かった」――そんな時代に、全国区の人気、知名度を得ていた数少ないパ・リーグの投手だといえるかもしれない。

 1990年、40歳で引退した年にそれまでの野球人生を振り返ったロングインタビューが「FOCUS」(1990年11月30日号)に掲載されているので、抜粋・引用しながらその野球人生を振り返ってみよう。


■145キロは投げられるが引退を決意


 まず、引退を決めた理由について。

「僕が引退を決めたのは、7月10日の対近鉄戦でした。この試合は5回を投げて6失点と散々で、6回表、1死も取れずマウンドから下りる時、僕は手をクロスさせてバツのサインを出しました。

 KOされた投手が、マウンドを降りたい、という合図をしたように思われたかもしれませんが、これは『もう自分はプロとしてアカン』というサインだったのです」

 それまで村田氏は45歳までは投げたいと考えていたという。しかしその年の5月頃から、引退の二文字がちらつき始めた。チーム事情でリリーフに回ったものの、失敗が続いた。

 結果、先発に戻ることとなる。

「この時、自分自身の野球生命を賭けたのです。とりあえず2回投げて結論を……と決めました。1回目が7月3日、東京ドームでの日本ハム戦で、この時は、勝つには勝ちましたが、完投できなかった。

 そして7月10日のKOです。賭けの結果が出た訳です。

 完投できなくなったことも引退を決めた理由の一つですが、自分の納得のいく球が投げられなくなったことが、僕にとっては一番大きかった。

 もちろん、今でも145キロぐらいの速球は投げられます。しかし、投げられることと、自分が納得する球が投げられるかどうかは全く別なんです。

 若い頃は、捕手さえいればいいと思っていたこともありました。三振を取ることを生きがいにしてたからです。

 しかし、今は、守備の弱いところに打たせないようなピッチングの組み立てを考えなければならなくなった。

 145キロの速球で空振りさせるか、バットに当てられるか――納得のいく球が投げられなくなった、というのは、そういうことです」


■マサカリ投法の誕生


 プロ入りは1968年。高校3年生の時、ドラフト1位で「東京オリオンズ」(現・千葉ロッテマリーンズ)に指名された。プロ入りしてから身に付けたのが、代名詞となる「マサカリ投法」である。

「高校時代は普通の投げ方だったんです。僕の場合、その投げ方だと上半身がかって、上半身ばかり突っ込んでしまう。右肩が前に突っ込むようなフォームになる。

 それを矯正するには、右足に重心を残さなければならない。いわゆるタメを作る訳です。

 右足に重心を残し、右足と左肩を重心の中心線にする形を作ろうとし、その完成品が“マサカリ投法”だったわけです。

 しかし、こういう“変則的なフォーム”をマスターするには、どうしたって人一倍右足の力をつけなければならない。

 右足を鍛え、最終的には右足の親指一本でも立っていられるようになりました。左足を伸ばし、投げる格好で右足一本で立ち、しゃがむ。そして立ち上るという、いわゆるスクワットの右足一本形を何百回もやりましたね」

 このフォームと速球、そしてフォークボールを武器に村田氏はエースとなった。しかし入団14年目、1981年に右肘痛に襲われる。

 この肘の治療のために、83年、村田氏はアメリカの高名な医師、ジョーブ博士の手術を受けることにする。

 左手首の腱を右肘に移植するという手術だった。

 当時の日本ではこうした手術はタブー視されていた。復帰できるかどうかはまったく不透明な状況だったといっていいだろう。


■奇跡の復活


 しかし、約2年の必死のリハビリを経て1984年終盤に復帰。「伝説」を作ったのは翌シーズンである。

 1985年のシーズン、村田氏は開幕から11連勝という当時のプロ野球記録を樹立した。日曜日に登板しては勝つことから「サンデー兆治」というニックネームも得ることとなる。89年には200勝を達成し、最優秀防御率も獲得。

 この復活を支えたのは、猛練習だったと本人は語っている。

「僕は昔からそうだけど、とんでもない練習をする。今日は2時間走ると決めたら、靴が破けても走り続けるし、腹筋だって背筋だって、若い選手でもまねできないほどする。

 ごくマレに、僕の練習に挑戦してくる若い選手もいるけど、そうなると、僕は、またそれ以上やってしまう。

 結局、『村田さんは特別だ』となってしまう。

 だから若い選手が育たないのかもしれないが、何だって負けたくない、というコケの一念なんです」

 その特別さをわかりやすく示すのは、村田氏の引退試合での投球だろう。10月13日の対西武戦。すでに優勝を決めている西武の森祇晶監督は、「村田に失礼だから」といって、主力選手を並べたオーダーで臨んできた。

 これに対して村田投手も負けずに熱投し、結果、引退試合を完封で飾ったのである。


■昭和生まれの明治男


 野球に対するストイックな姿勢は引退後も変わらず、たまに人前で投球すると、年齢にふさわしくない剛速球を放り、周囲を驚かせ続けた。

 こうした村田氏の野球人生はファンにとっては尊敬の対象となり続けた。

 それゆえ、昔を知る人ほど「信じられない」と口にしたのだろう。

 引退の年、夫人が村田氏を評した「昭和生まれの明治男」という言葉が、その年の流行語大賞に選ばれた。痛みに耐え、猛練習を続け、完投、真っ向勝負を理想とするその姿にピッタリということで、多くの共感を得たのである。

 もっとも、当時、夫人は、村田氏について「家庭では亭主関白でもありませんし、平成男です」と語っていた。

 その平成も終わり、令和となったのだが、今回は「明治男」の面がつい出てしまったということなのだろうか。

デイリー新潮編集部

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