万年Bクラスだったベイスターズの意識改革を成し遂げた監督の「変える力」

 ペナントレースも終盤に近付きつつあり、優勝可能性のあるチームは絞られてきた。プロ野球の場合、チームの成績を左右するのは戦力に加えて監督の力だというのは定説となっている。

 万年Bクラスのような弱小チームが監督交代で甦った。そんなドラマはこれまでにも何度も見られてきた。

 そうしたドラマを演出した指導者たちはみな、“人づくり”の名人であり、それぞれ持ち味とも言うべき“力”を持っている――その視点で書かれたノンフィクションが『指導者の条件』(黒井克行・著)だ。

 同書の中から、プロ野球チームを変えた名監督にまつわるエピソードを3回にわたってご紹介しよう。第1回目の今回は、横浜ベイスターズ(現・DeNAベイスターズ)の大矢明彦監督の「変える力」。同チームは1998年、権藤博監督の下、38年ぶりの優勝を果たしたが、実はその前任者である大矢監督の意識改革が大きかった、というのだ。(以下は同書より・文中敬称略、肩書等は当時のもの)

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 1998年、権藤博監督率いる横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)が38年ぶりのリーグ優勝とプロ野球日本一に輝いた。万年Bクラスが定位置だったチームの快挙だった。

「自信を持ってシーズンに臨みました」

 この年、チームトップの13勝を上げたピッチャーの野村弘樹はそう振り返る。

「それまでも表向きは、毎年『目標は優勝』と言ってきましたが、常勝が義務づけられている巨人の選手が言うのとはわけが違う。本音の部分では『今年もまたBクラスか』という負け犬根性があって、『個人成績さえ残せばいい』という気持ちだった気がします。それが1996年から意識が変わっていきましたね。勝つことってこんなに楽しいのか、優勝を目指すってこんなに素晴らしいのかって」

 その1996年は、大矢明彦がバッテリーコーチから監督に昇格した年である。大矢としてはチームを預った以上、いつまでもBクラスを“定位置”のままにして屈辱に甘んじているわけにはいかない。幸いチームは年齢的に若いこともあり、相手に対する劣等感はさほど根深くはない。選手の自信を喚起し、潜在能力を引き出し、自主性をいかに身につけさせるか。大矢はチーム内に蔓延していた負のオーラから解き放つ意識改革に挑んだ。それがこの年に実を結んだのだった。

 その意識改革とは、どのようなものだったのか。

 大矢が就任早々手掛けたのは、内野陣の大胆な配置転換だった。3年連続でゴールデングラブ賞のサード・石井琢朗をショートへ、堅実な守りを誇るショート・進藤達哉をセカンドへ、そして強打の助っ人セカンドのローズをサードへとコンバートした。適材適所と思われていた布陣の変更に疑問の声も少なくなかったが、大矢は若いチームのリーダーとして石井に期待し、内野の要であるショートを任すことでチーム変革の一歩とした。

 その結果、石井は肩の強さが活かされ、また進藤はセカンドからサードに回ったものの、1997年から3年連続でゴールデングラブ賞に輝き、チーム活性化のカンフル剤になったのだ。

 初め“ハマの大魔神”ことピッチャーの佐々木主浩は半信半疑だった。

「正直言って大丈夫かなって思いましたよ。でもキャッチャー出身だけあって、周りがよく見えていたんですね。ピッチャーの起用法でも故障者がいる厳しい台所事情の中、細かい気配りでうまくやり繰りしてくれました」

 そして大矢監督の人物像をこう語る。

「カリスマ性があったり、口うるさかったり、鉄拳も辞さぬタイプと、いろんな監督の下でプレーしましたが、大矢さんは遠慮なく話のできる監督でした。選手としても実績を残されていますが、叩き上げの人です。地道に積まれた経験からたくさんの引き出しを持っているので、どんな質問にも的確な答えが返り、いろんなことを相談できた。人の気持ちがわかる方なのでチーム内の信頼に繋がっていったと思います」

 今でこそ監督自らキャンプ中にバッティングピッチャーを務めたり、ブルペンでピッチャーの球を受けたりする姿を見かけるが、大矢監督は選手に交じってグラウンドに立ち、整備から球拾いまで買って出た。監督室はいつも選手の出入りが自由で、大矢は選手と同じ目線に立って向き合おうとした。

「僕にとって“監督”とは遠い存在で、監督自ら話をしてくるなんて考えたこともありませんでしたが、初めて声をかけてくれたのが大矢さんでした。細かいことをあれこれ言ったり、手取り足取り世話を焼くわけではなく、口癖は『ゲームで自己主張できる選手になれ』。でも自己主張するからにはそれなりの根拠が必要です。だから練習も試合もプレーの一つ一つの理由を考えるようになった」(野村弘樹)

 野村は93年に17勝で最多勝のタイトルを獲得したが、その後、腰や肘の故障に悩まされ、勝ち星は1桁台に落ち込み、当時は選手生命が危ぶまれていた。そんな矢先での大矢監督との出会いだった。

「いつも見られている感じでしたね。“アイツは故障を抱えているが一体どんな練習をしているのか”とチェックされていたと思います。その視線に刺激を受け、それまでのやらされていた練習から、自ら考えてやる練習になっていった」

 大矢の狙いはまさにそこだった。若い発展途上のチームゆえに伸び代は計り知れない。練習が自主的に行われているかどうかでさらに伸び代は広がる。そう考えた大矢は選手の自主性を尊重し、たとえ試合で失敗してもそれ自体を咎めずに、同じ失敗を繰り返さないよう練習で補うことでよしとした。選手自身が失敗した理由を練習を通して頭と体ではじき出すことができれば、成長が望めるからだ。積極的で自己主張した末の失敗ならば、受け入れた。一方、ごまかしや逃げの姿勢には厳しかった。

 野村にとって忘れられない一球がある。広島相手にホームで7回まで3対0で完全に抑え込み、ほとんど勝ちを意識させる試合だった。そんな勝ちムードの中、野村はツーアウトからランナー2人を置いて同点ホームランを打たれてしまう。試合は広島のその勢いのまま逆転負けを喫した。ベンチに戻った野村に対して大矢は眼光鋭く見つめ、

「あの一球はない」

 と、ひとこと言い放った。

 外角のシンカーが甘く浮いた一球だった。大矢は打たれたことを責めたわけではない。一発を警戒して安易に外に逃げた野村の投球姿勢を咎めた。逃げる気持ちが甘いボールに乗り移ってしまったと。

「大矢さんにはその場凌ぎの思いつきやハッタリは通用しません。その一球の失敗とひと言がその後の僕の野球人生に大きく影響しました」

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 98年の優勝を象徴するのが「マシンガン打線」であるが、それも生みの親は大矢である。切れ目のない、まさにマシンガンのように「これでもか」とヒットを雨あられの如く浴びせる。その先陣を切ったのが「石井─波留」の1、2番コンビだ。俊足の石井が塁に出ると盗塁、右打ちもできる器用な波留とのヒットエンドランなど、この2人だけでさまざまな攻撃のバリエーションがあり、翻弄された相手はリズムを崩してしまう。その後に“マシンガン”が炸裂するというわけだ。

 大矢はこのコンビにベンチからサインを送らず自由な裁量権を与えた。

「自己主張できるだけの選手と認めたからですよ」(佐々木主浩)

 それは他の選手への励みとなり、正の連鎖となっていった。

 そして大矢はプロの世界における“懲罰”や“論功行賞”に対する考え方を一変させた。たとえばプロ野球の世界では、送りバントの失敗やサインの見落としなどイージーなミスには容赦なく「罰金」が科せられる。ほとんどが監督の差配によるが、大矢は罰金を一切科すことがなかった。

 その一方、優れたパフォーマンスに与える「監督賞」は乱発した。もちろん、試合を決定づけるホームランや好投がその対象だが、送りバントを決めた選手にも勝利を呼び込む伏線となる好プレーと積極的に評価し、選手が一堂に会する中、賛辞とともに賞を贈った。

 こうして96年から若きベイスターズの選手たちに意識改革をもたらし、勝つことの楽しさを教えていった。大矢体制の1年目は「リーグ5位」とそれまで同様Bクラスに甘んじた。だが意識改革はゆっくり浸透し、着実にチーム力が醸成されていた。2年目は大方の予想を裏切って、シーズン終盤まで激しい優勝争いを演じ、2位に躍進した。

「僕らにとって初めて『優勝』の2文字が見えた瞬間でした。大矢さんは相当にストレスを溜め込んでいたと思いますよ。余計なことは一切言わないし、選手を怒ることもなく、すべてを自分の中で抑え込む。実際、短気な性格だと思いますが、相当な我慢をしてくれていたんだと思います」(佐々木主浩)

 その年のベイスターズのリーグ2位が確定したシーズン最終戦。プロ野球史上、前代未聞の出来事が起こった。優勝監督ならぬ、優勝を逸した大矢監督を選手が胴上げしたのだ。

「若い選手に自信をつけさせ、大人にしてくれた。誰もがその思いで、自然とああなったんですよ」(同前)

デイリー新潮編集部

2019年8月16日 掲載

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