日米野球(昭和9年)でベーブ・ルースが甲子園球場では1本もホームランを打てなかった謎に迫る

日米野球(昭和9年)でベーブ・ルースが甲子園球場では1本もホームランを打てなかった謎に迫る

甲子園球場で1本もホームランを打てなかったベーブ・ルース(Wikimedia Commonsより)

 1934年(昭和9年)秋、読売新聞社の主催で第2回日米野球が開催された。ベーブ・ルースら強豪打者が顔を揃えたアメリカン・リーグ選抜と全日本が対戦、全18試合(混合紅白戦含む)が行われた。アメリカチームはホームランを計47本も量産し、その中でルースはトップの13本を放った。打率も408(76打数31安打)で1位だった。ところが、2試合行われた甲子園球場では、ルースだけでなく、大リーガーは一度もホームランを打てなかったのである。

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 読売主催の第1回日米野球は1931年(昭和6年)。同社の正力松太郎社長がMLB選抜を招いて開催され、鉄人ルー・ゲーリッグや剛腕レフティ・グローブらMLB選抜を相手に、日本はオールスターチームを結成して挑むも、17戦全敗だった。

 第2回日米野球の甲子園球場での試合は第13戦、11月24日に行われた。3番ルースは5度打席に立ち、2単打、1四球、1三振、二塁ゴロの4打数2安打。来日直前に三冠王に輝いたルー・ゲーリッグは6打席で2安打1四球。8回、全日本の青柴憲一投手から中堅を襲う大三塁打を放ったが、打球はフェンス直撃ではなかった。前年の三冠王のジミー・フォックスは6打席安打なし、2四球だった。

 翌25日に同じく甲子園球場で行われた第14戦(日米両チームが混合しての紅白戦)でも、大リーガーからホームランは出なかった。5回の時点で0−3。1死満塁のチャンスでルースが登場。ホームランが出れば逆転という場面で、場内は沸き立った。マウンドのクリント・ブラウン投手の投げた球をルースはライトへ高々と打ち上げた。柵越えかと思わせる大きな当たりだったがキャッチされ、スタンドから大きなため息が漏れた。

 甲子園球場が開場したのは1924年(大正13年)8月。

「元々、野球専用球場として作られたものではありません。外野でラグビーやサッカー、陸上競技ができる多目的スタジアムとして設計されました。そのため、ホームから左右両翼は110メートル、中堅は119メートルに対し、左中間右中間は128メートルもあった。左翼、中堅、右翼を結ぶフェンスがほぼ直線で、フェアグラウンドは正三角形のように見えました」

 と解説するのは、12月に『ベーブ・ルースは、なぜ甲子園でホームランを打てなかったのか』(東方出版)を出版した野球研究家の永田陽一氏である。同氏は、大阪大学法学部を卒業後、ペンシルベニア大学の大学院で国際関係論を専攻。SABR(アメリカ野球学会)会員、野球文化學會会員で、野球を統計学的見地から客観的に分析している。今回の著書では、戦前の日米野球や日本初の野球リーグなどを紹介した。著書に『ベースボールの社会史 ジミー堀尾と日米野球』(東方出版)、『東京ジャイアンツ北米大陸遠征記』(東方出版)などがある。

 甲子園球場が開場した1924年(大正13年)夏の全国中等学校優勝野球大会では、計19本のホームランが飛び出したが、いずれも柵越えはなくランニングホームランだった。


■バカバカしい大きさ


「甲子園球場でのプロ野球公式戦柵越えホームラン第1号は、1936年(昭和11年)7月11日にジミー堀尾外野手(阪急)が巨人戦で打ちました。甲子園球場は、36年(昭和11年)6月、ほぼ現在の大きさまで狭める改修工事を行っているのです。この工事で、左右両翼は91メートル、中堅、左中間、右中間は119メートルに縮まりました。この工事の後の6月27日、大阪タイガース主砲の景浦将が東京巨人とのオープン戦で左翼スタンドにホームランを打ち込み、甲子園球場のプロ野球オープン戦柵越え1号となっています」

 永田氏は、このジミー堀尾選手に注目する。

「ハワイ出身の堀尾選手は、アメリカで『ロサンゼルス ニッポンズ』というセミプロチームに所属していました。当時ロスには、映画会社や石油会社のセミプロチームがあって、強かったのです。1931年(昭和6年)、ニッポンズが日本に遠征に来て、甲子園で試合をしたのですが、ニッポンズの選手たちは甲子園の大きさにびっくりしていました。当時の掘尾選手に興味を持ったので、私は1990年代に、国会図書館などで色々と資料を集めていたら、34年(昭和9年)の2月14日付大阪毎日新聞に、観客の収容人員を増やすため、甲子園の改修工事に取り掛かったという記事があるのを見つけました。日米野球の8カ月前に、甲子園は外野の拡張工事を行っていたのです。この工事のことは、阪神タイガースの公式球団史や甲子園球場を扱った本にはすっぽりと抜け落ちていました」

 どんな工事だったのか。

「甲子園は、ホームからバックネットまで90フィート(27・43メートル)ありましたが、ダイヤモンドをバックネット方向に30フィート(9・14メートル)引き寄せたのです。ダイヤモンドを移動させたことで、外野が広くなったわけです。その後、36年(昭和11年)の工事で外野を狭め、観客席を増やしたわけです。この34年の工事は第1期改修工事、36年が第2期改修工事ということになります」

 第1期工事で、どれくらいの広さになったかというと、

「ダイヤモンドの移動で、左右両翼は110メートルから95メートルに、中堅は119メートルから128メートルになりました。ただ、左中間、右中間の距離がどう変わったのか記述がありませんでした」

 永田氏は1993年(平成5年)12月、旧知の仲だった野球場博士と言われた沢柳政義氏の自宅を訪ねたという。沢柳氏は東京都職員から野球場研究家となり、研究に没頭した人物だ。

「沢柳さんは、甲子園球場の第1期工事について、初耳だ、まったく知らなかったと言っていました。沢柳氏に私が収集した文献を提供し、彼が製図をして、ホームから左中間、右中間の距離を137メートルと割り出しました」

 1934年(昭和9年)の甲子園球場と同じ年の大リーグの球場と比較すると、左右両翼と中堅は、甲子園球場が特別長すぎるというわけではなかった。

「甲子園の左中間137メートルを超える大リーグの球場として、ヤンキースタジアムの140メートル、リーグパーク(クリーブランド)の142メートル、フォーブスフィールド(ピッツバーグ)の139メートルがあります。大リーグの球場は、一般的に左右非対称です。左打ちのルースがホームランを叩き込んだホームグラウンドのヤンキースタジアムの右中間は最深部で131メートル、右翼線は89・9メートルしかありません。だから、ルースは34年の甲子園でホームランを打てなかったものと思われます。ルースはよほど悔しかったのか、試合後、『バカバカしい大きさだ』(『野球界』35年(昭和10年)1月)と、恨み節を吐いていますよ」

 ルースら選抜チームを率いたコニー・マック団長(アスレティックス監督)も、読売新聞(34年(昭和9年)11月25日付)でこう批判している。

〈けふの試合は試合としての興味は薄かった。その主たる原因はホームランが1本もでなかったゝめである、何といっても試合にはホームランが付き物である、ところが甲子園のグラウンドは米国メジャー・リーグの十六チームが持ってゐるグラウンドに比べて遥かに大きなものであって、このやうな大きなグラウンドでホームランを打つといふことは絶対に不可能といはなければならない、……あまり広いグラウンドで試合を行ふことは試合の興味を減少するばかりである〉

週刊新潮WEB取材班

2019年12月11日 掲載

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