慶應大野球部の源流、殿様の野球チーム「徳川ヘラクレス倶楽部」とは

慶應大野球部の源流、殿様の野球チーム「徳川ヘラクレス倶楽部」とは

徳川達孝(Wikimedia Commonsより)

■にっぽん野球事始――清水一利(5)


 現在、野球は日本でもっとも人気があり、もっとも盛んに行われているスポーツだ。上はプロ野球から下は小学生の草野球まで、さらには女子野球もあり、まさに老若男女、誰からも愛されているスポーツとなっている。それが野球である。21世紀のいま、野球こそが相撲や柔道に代わる日本の国技となったといっても決して過言ではないだろう。そんな野球は、いつどのようにして日本に伝わり、どんな道をたどっていまに至る進化を遂げてきたのだろうか? この連載では、明治以来からの“野球の進化”の歩みを紐解きながら、話を進めていく。今回は第5回目だ。

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 新橋鉄道局の鉄道技師だった平岡熙が1878(明治11年)年に結成した、日本初の本格的な野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を追うようにして溜池倶楽部、小石川倶楽部、東京倶楽部、赤坂倶楽部、高輪倶楽部など多くのクラブチームが登場、野球はさらに広まっていった。その中でも、きわめてユニークな存在として有名だったのが1880(明治13)年、新橋アスレチック倶楽部に次ぐ日本で2番目の野球チームとして誕生した「徳川ヘラクレス倶楽部」だった。

 チームのオーナーは田安徳川家の当主で、その後、大正天皇の侍従長を務めることになる徳川達孝であり、家庭教師として彼に英語を教えていたのがアメリカ帰りの平岡だった。ところが、平岡と触れ合ううちに達孝は英語以上に野球に興味を覚え、やがて三田綱町(現在の港区三田2丁目周辺)にあった広い邸宅内に運動場を造り、野球チームを作って新橋アスレチック倶楽部と試合を行うようになった。

 しかし、当時はまだ野球というスポーツを知っている人はほとんどおらず、観客はまったくといっていいほど集まらなかった。そこで、達孝は1人でも多くの人に見てもらい、野球の面白さを知ってもらおうと茶菓子を用意し、運動場を訪れた人たちを一生懸命もてなしたという。

 また、達孝は平岡たちが使っていたスポルディング製のバットを見て、すぐに出入りの職人に命じて自前のバットを何十本も作らせた。だが、その特製バットはすべてピッチャーの投げるボールを一球打っただけですぐに折れてしまい、まったく使いものにはならなかったという。

 というのも、達孝が作らせたバットは最高級の桐の柾目を使用したもの。高価ではあったが、野球のバットとしては適さない材質だったのだ。

 茶菓子の話も桐のバットの話も、いかにも殿様らしいほほえましいエピソードだが、それ以上に徳川ヘラクレス倶楽部の存在は日本野球史の中でも大きな位置を占めている。三田綱町の運動場が慶應義塾のすぐそばにあったことから野球に関心を持つ学生たちが増え1888(明治21)年、慶應野球部の前身「三田ベースボール倶楽部」の誕生へとつながっていくからである。

 日本に野球を広めることに大きな役目を果たした新橋アスレチック倶楽部は、1887(明治20)年、平岡が鉄道局を退職するとともに残念ながらチームを解散することに。すると、他のクラブチームも社会人たちが仕事の合間に野球を楽しむ時間を作ることが難しくなっていき、創成期のように野球は学生たちの元へと戻っていく。そして、日本の野球は学生スポーツとしてアメリカとは異なる独自の発展を遂げて、その後、国民的スポーツとなっていくわけだが、このことは日本野球史を考えるうえで極めて重要なポイントだ。

 もともとアメリカにおける「ベースボール」は大人たちの娯楽、つまり、余暇を楽しむ遊び、スポーツとして1800年代初頭に始まり、1860年代の南北戦争を機にアメリカ全土に広まっていった。そして、ベースボールがビジネスとして成り立つことに気がついた実業家たちが次々にチームを結成して全米各地で試合を組み、プロスポーツとして一般大衆の支持を得ることでさらに大きく成長していったのである。

 これに対して日本では学校、それも当時としては一高をはじめとするエリート中のエリートたちが集まる大学で、娯楽というよりも、いわば授業の一環として「野球」が広まっていく。日本に野球が伝わった当時は、まさに文明開化の真っ最中。時の明治政府は1日も早く欧米に追いつこうと国を挙げて大学生たちの教育に力を注いでいた、そんな時期だった。

 しかし、その教育は法律や外国語、新しい科学技術の取得ばかりが重視され、体を鍛えるという体育面での教育はまったく考慮されていなかった。せいぜいあったのは体力よりも精神の鍛練を目的とした柔道、剣道などの日本古来の武術だけである。

 そうした明治政府に対して、体育教育の重要性を進言したのがホーレス・ウィルソンをはじめとする日本にやって来た教師たちだ。学生たちのほとんどがひ弱な体をしていて病気がちだったことから、ウィルソンらはしばしば定期的に外での運動をやらせるべきだといっていたという。そして、学生たちの体力増強の手段として野球が採用されることになったというわけだ。

 その後、ウィルソンらの意見は時の政府を動かし、1878(明治11)年になって、日本最初の体育の研究・教育機関である「文部省体操伝習所」が設立されることになる。つまり、ここに至って全国の学校に近代体育が普及していくのである。

 こうして始まった野球は日本では学生スポーツとして独自の進化を遂げていくのだが、そこには日本ならではの武士道と結びつき、「学生野球の父」と呼ばれる飛田穂洲が提唱した精神的な色彩の濃い「野球道」が大きく関わっている。

 ちなみに、日本にプロ野球リーグが誕生したのは野球が伝わったとされる1872(明治5)年から半世紀以上経った1936(昭和11)年。その2年前の1934(昭和9)年に来日したベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらを擁する全米オールスターチームと対戦するために結成された大日本東京野球倶楽部が東京巨人軍と改称、名古屋金鯱軍と戦ったのが始まりだ。

 しかし、その当時のプロ野球は職業野球と呼ばれて蔑まれ、大学野球、特に東京六大学リーグの人気には到底かなわなかったというから、その点でもアメリカとは大きく異なっているといわざるを得ないだろう。

【つづく】

清水一利(しみず・かずとし)
1955年生まれ。フリーライター。PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰。著書に「『東北のハワイ』は、なぜV字回復したのか スパリゾートハワイアンズの奇跡」(集英社新書)「SOS!500人を救え!〜3.11石巻市立病院の5日間」(三一書房)など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年3月14日 掲載

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