東京六大学野球に中央ではなく立教、そして弱い東大が加入した理由

東京六大学野球に中央ではなく立教、そして弱い東大が加入した理由

東京大学

■にっぽん野球事始――清水一利(21)


 現在、野球は日本でもっとも人気があり、もっとも盛んに行われているスポーツだ。上はプロ野球から下は小学生の草野球まで、さらには女子野球もあり、まさに老若男女、誰からも愛されているスポーツとなっている。それが野球である。21世紀のいま、野球こそが相撲や柔道に代わる日本の国技となったといっても決して過言ではないだろう。そんな野球は、いつどのようにして日本に伝わり、どんな道をたどっていまに至る進化を遂げてきたのだろうか? この連載では、明治以来からの“野球の進化”の歩みを紐解きながら、話を進めていく。今回は第21回目だ。

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 早稲田、慶應、明治の三大学リーグに法政が加入した後、1921(大正10)年、結果的には立教が加盟することになったが、当時の大学野球界の状況からすると、立教よりも入るのがふさわしい強豪校は他にもあった。学習院、中央、国学院、明治学院、青山学院、日大、専修である。

 それが、どうして立教になったのかといえば、そこにはさまざまな思惑が絡み合い、それぞれの学校が排除される理由が存在したからだ。

 まず、青山学院は早稲田と古くから交流があり、早慶戦ともなると早稲田の応援席には多くの青学の学生が紛れ込んでいたという。これに対して、白金に学校があったことで、そこからほど近い高輪の慶應と仲がよかったのが明治学院だ。こちらも早慶戦になると、多くの明学生が慶應の応援に力を入れていたという。それでなくても早慶がもめ、両校の対戦が途絶えていた時である。そこへ青学、明学が加われば早慶の関係がさらに悪化し、あるいは新たな遺恨が生まれてしまうかもしれない。そんな懸念から両校の加入は見送られた。

 では、学習院はどうかというと、早慶明法の「四大学リーグ」のころはまだ「東京」とは謳っていなかったものの、東京を舞台にしたリーグであり、リーグを盛り上げるためには東京の学校でなければならないという“暗黙の了解”のようなものがあった。その点、東京府民(当時は東京都ではなく東京府)には「学習院は京都から来た学校、東京の学校ではない」という意識が強かった。そのため学習院の加盟に難色が示されたという。

 となると残るのは、中央、国学院、日大、専修だ。中でも飛田穂洲が以前から中央を指導していたこともあり、すんなり中央に決まるのではないかと思われていたが、そうとはならなかった。というのは、そこには当時の大学の性格が大きく関わっていたのだ。

 歴史的に見ると、日本の私立大学の多くは法律学校としてスタートしている。その法律学校にはフランスの法律をベースとする学校とイギリスの法律をベースとする学校があり、前者でいえば明治、法政、後者でいえば中央、専修がその代表的な学校だった。もちろん両者は互いに相容れないライバル同士だった。そのため、すでに四大学のメンバーだった明治、法政がタッグを組み、中央、専修、さらには日本法系の学校だった国学院、日大の加盟をかたくなに拒んだというのが現在の定説となっている。

 つまり、消去法で候補の学校が次々に消えていった中で最後に残った立教に白羽の矢が当たったのである。

 そして、東京六大学野球リーグの最後の椅子、6番目の学校として名乗りを上げたのが東京大学、当時の帝国大学だ。その前身である旧制一高は日本の野球の歴史を語るうえで忘れてはならない学校ではある。しかし、現在、東大野球部では旧制一高の歴史は別物として扱っており、東京大学野球部の創設は対外的には1919(大正8)年ということになっている。

 その東大が入った理由は極めて明白である。日本の最高学府として社会のあらゆる分野に多くの人材を輩出していた東大の存在が無視できなかったのだ。そのため、連盟の上層部は、おそらく「今後リーグを運営していくうえで東大人脈を通した交渉が欠かせない」と判断したのだろう。そうでなければ、かつての一高時代に一世を風靡したとはいえ、当時は他の5校に比べて明らかに実力の劣る東大に声がかかるはずはなかったからだ。

 また、早稲田の監督・飛田穂洲が一高の野球精神の信奉者だったこと、明大野球部長・内海弘蔵が一高の出身で東大に多くの友人知人がいたこともリーグ加盟の大きな力となった。

 1925(大正14)年春、東京六大学野球リーグへの加盟に際して、東大は法政を除く4校と、いわばテストともいえる試合をしている。そこで東大は早稲田に1対9、慶応に2対4、明治に3対6、立教に1対3と4戦全敗に終わったものの、各試合とも善戦したことが認められ、秋からの正式参加となった。そしてその時、東大の加盟に大きく貢献した1人の名投手が東武雄だ。

 東は1925(大正14)年9月25日、中野の法大球場で行われた記念すべきリーグ初戦の法政戦に先発、法政打線を1点に抑えるとともに8回には自ら本塁打を記録、4対1で東大に初勝利をもたらしている。この試合での東の本塁打は東京六大学リーグの第1号本塁打であり、1927(昭和2)年春の立教戦では東大史上初で、いまに至るも東大唯一のノーヒットノーランも達成しているから、東大のみならず東京六大学リーグの歴史に残る名投手といってもいいだろう。東の挙げた通算16勝は、17勝の岡村甫に次ぐ東大野球史上第2位の記録となっている。

 事実、東が卒業した後の1933(昭和8)年から1938(昭和13)年にかけて10季連続最下位になるなど東大が一気に弱体化したことを見ても、いかに東の力が大きかったかが分かる。

 ちなみにこれは余談だが、1959(昭和34)年から1967(昭和42)年までの2期8年間、東京都知事を務めた東龍太郎は武雄の兄に当たる。

 さて、東京六大学リーグが始まって以来一度の優勝を記録することもなく、リーグ最多連敗記録連敗を更新するなど加盟時から今日に至るまで苦難の道を歩み続けている東大であるが、当初の連盟からの条件だけは、しっかりと守り続けている。

 東大球場の近く、文京区本郷にある東大野球部の合宿所「一誠寮」には初代野球部長・長與又郎の筆による看板が掲げられている。その中の「誠」という字は長與が書き損じたのか、あるいは意図的なのかは分からないが、「成」の部分の一画「ノ」が欠けており、現在でもそのままになっているそうだ。そして、東大がリーグ優勝を果たしたその時には、この一画を書き加えることになっているのだという。

 さて、はたして東大に「その時」が来るのだろうか? もし、そんな日が来れば東京六大学リーグがこれまでにない盛り上がりを見せることは間違いない。東京六大学野球の関係者は、おそらく誰もが「その時」を待ち焦がれているだろうが……。

【つづく】

清水一利(しみず・かずとし)
1955年生まれ。フリーライター。PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰。著書に「『東北のハワイ』は、なぜV字回復したのか スパリゾートハワイアンズの奇跡」(集英社新書)「SOS!500人を救え!〜3.11石巻市立病院の5日間」(三一書房)など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年7月4日 掲載

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