球史に残る伝説の大激闘「早慶六連戦」(昭和35年秋) 優勝決定戦は2度の再試合

球史に残る伝説の大激闘「早慶六連戦」(昭和35年秋) 優勝決定戦は2度の再試合

石井監督を胴上げする早大ナイン

■にっぽん野球事始――清水一利(30)


 現在、野球は日本でもっとも人気があり、もっとも盛んに行われているスポーツだ。上はプロ野球から下は小学生の草野球まで、さらには女子野球もあり、まさに老若男女、誰からも愛されているスポーツとなっている。それが野球である。21世紀のいま、野球こそが相撲や柔道に代わる日本の国技となったといっても決して過言ではないだろう。そんな野球は、いつどのようにして日本に伝わり、どんな道をたどっていまに至る進化を遂げてきたのだろうか? この連載では、明治以来からの“野球の進化”の歩みを紐解きながら、話を進めてきた。今回は最終回だ。

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 東京六大学リーグはもちろん、プロ野球や高校野球をも含めて日本の野球史を飾る名勝負として、半世紀以上経ったいまもなお多くの野球ファンの記憶に残っているのが1960年(昭和35)年秋の、巷間「涙の6連戦」と称される早慶戦。「野球は筋書きのないドラマ」といわれるが、その言葉はこの年の早慶戦のためにあったといっても過言ではないだろう。

 このシーズン、慶應は勝ち点4を挙げ、優勝に王手をかけていた。一方、早稲田のほうは明治戦で勝ち点を落としたものの、慶應に連勝すれば逆転優勝、2勝1敗なら優勝決定戦に持ち込むことができるという、最後の早慶戦で優勝の行方が決まるのは1939(昭和14)年以来21年ぶりのスリリングな状況となっていた

 となれば、両校の学生ばかりではなく一般の野球ファンも注目。神宮球場には11月6日の第1戦から6万人を超える観客が押し寄せ、朝10時には早くもスタンドは超満員札止めとなった。春のリーグ戦では慶應が連勝で早稲田を破って勝ち点を得たため、戦前の予想では慶應有利。すんなりと優勝を決めるのではないかと見られていた。

 ところが、第1戦は2対1で早稲田が先勝、第2戦は4対1で慶應が雪辱したものの、第3戦は3対0で早稲田が勝ち、優勝の行方は決定戦へと持ち込まれた。

第1戦(11月6日・観衆6万5000人)
早稲田2-1慶應

早稲田 ○安藤―野村
慶應 ●清沢、角谷、丹羽―大橋

第2戦(11月7日・観衆6万人)
慶應4-1早稲田

慶應 三浦、○角谷―大橋
早稲田 ●金沢―野村

第3戦(11月8日・観衆6万人)
早稲田3-0慶應

早稲田 ○安藤―野村
慶應 ●清沢、丹羽―大橋

 連盟の規約では優勝決定戦は1試合ということになっている。泣いても笑ってもその1戦だけだが、この年の早慶戦が球史に残るものとなったのは、その1試合ですんなりと終わらなかったからだ。ここからが本当のドラマが始まった。それも誰もが想像できなかった筋書きのないドラマが……。

 11月9日、運命の第4戦の先発を任されたのは慶應・角谷隆、早稲田・安藤元博の両エース。特に安藤は第3戦の完封勝利に続く連投である。先制したのは慶應だ。2回裏、3塁打の渡海昇二を大橋勲が犠牲フライでホームに迎え入れた。

 しかし、安藤はその後、粘り強い投球で慶應に追加点を与えず、味方の反撃を待つ。一方、角谷はカーブを有効に使う持ち前の打たせて取る頭脳的なピッチングが冴え、早稲田打線を6回までノーヒットに抑える。7回に2安打を浴びピンチを迎えるが、捕手・大橋が絶妙な牽制球で2塁ランナーを刺し、得点を許さない。

 最終回の9回、早稲田の攻撃もワンアウトとなり、このまま慶應が逃げ切って優勝を決めるかと思われたが、代打・鈴木悳夫が起死回生の3塁打を放ち、続く石黒行彦のヒットで追いつき試合は延長戦に。そして、当時の神宮球場には照明設備がなかったため11回が終了した時点で日没引き分けとなった。

第4戦(11月9日・観衆6万5000人)
早稲田1-1慶應(延長11回日没引き分け)

早稲田 安藤―野村
慶應 角谷、丹羽―大橋、田中

 こうして決着は東京六大学野球史上初めての優勝決定再試合へともつれ込んだのである。第5戦は1日置いて11日ということになった。4連戦を戦った両校ナインの疲労を考えての、連盟のせめてもの配慮だった。

 先発は第4戦同様、慶應・角谷、早稲田・安藤。角谷は連投、安藤に至っては3連投となる。たしかに中1日の休養は与えられたが、2人とも一昨日、11回を投げている。常識的に考えて両投手に疲れがないわけがない。それでも両者ともに息詰まる投手戦を展開して互いに譲らず、またしても延長12回0対0で日没引き分けとなった。

 もちろん、早慶ともにチャンスはあった。早稲田は6回2死2塁から鈴木悳夫がライト前ヒットを放ったが、2塁ランナーがホーム寸前でタッチアウト。一方、慶應は初回、立ち上がりの安藤を攻めて1死3塁のチャンスを作るも後続が凡退。5回には2塁ランナーが安藤統夫のヒットでホームを突くも好返球でタッチアウト。さらに、延長11回にも満塁のチャンスにライトフライでホームを狙ったランナーがタッチアウトになり、なかなか得点が奪えなかった。

第5戦(11月11日・観衆6万5000人)
早稲田0-0慶應(延長11回日没引き分け)

早稲田 安藤―野村
慶應 角谷、清沢―大橋

 ついに戦いは翌12日の優勝決定戦再々試合、第6戦へと突入した。

 先発は4連投の早稲田・安藤、3連投の慶應・角谷である。両投手はもちろん野手たちも全員、疲労困憊の中での戦いとなったことはいうまでもない。試合は2回、早稲田が2点を先制。5回にも1点を加え、この3点を背に安藤が力投。慶應打線を1点に抑えて、1週間に及ぶ死闘にようやく終止符を打った。

 6連戦に足を運んだ観客は、のべ38万人。選手にとってもファンにとっても生涯心に残る早慶戦になった。これほどの壮絶な戦いは今後二度と見ることができないかもしれない。早慶戦が続く限り語り継がれていくことだろう。

 ちなみに、この時、安藤が付けていた背番号が11番。以来、早稲田のエース番号として今日まで受け継がれている。

第6戦(11月12日・観衆6万5000人)
早稲田3-1慶応

早稲田 ○安藤―野村
慶応 ●角谷、清沢、三浦、丹羽―大橋

 1872(明治5)年、アメリカ人宣教師ホーレス・ウィルソンによって日本に伝えられてから148年。投げる・打つ・走る・守るという人間に与えられた運動能力の全てを駆使し、単純ながらも奥の深いスポーツ野球は日本で独自の進化を遂げた。その間、野球の魅力に取りつかれた多くの先人たちが野球を広めるために努力を惜しまなかったことはいうまでもない。

 時代が昭和から平成を経て令和となった今、当初、学生たちがリードしていた野球人気を支えているのはプロ野球だ。戦後、敗戦で打ちひしがれていた日本人を勇気づけたのは赤バットの川上哲治、青バットの大下弘であり、テレビの普及とともに颯爽とデビューした長嶋茂雄の活躍はプロ野球人気を決定づけた。

 本連載では日本における野球のはじまりから隆盛までを学生野球、特に東京六大学野球を中心に振り返ってみた。しかし、野球の歴史はもちろんそれだけでは終わらない。かつては「職業野球」と蔑まされていたプロ野球がたどった道程については、機会があれば稿を新たに考察してみたいと思っている。

 長期のご愛読を感謝致します。ありがとうございました。

清水一利(しみず・かずとし)
1955年生まれ。フリーライター。PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰。著書に「『東北のハワイ』は、なぜV字回復したのか スパリゾートハワイアンズの奇跡」(集英社新書)「SOS!500人を救え!〜3.11石巻市立病院の5日間」(三一書房)など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年9月5日 掲載

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