落合博満が救った巨人と横浜の二人…他球団で“最後のひと花”を咲かせた「40代選手」

落合博満が救った巨人と横浜の二人…他球団で“最後のひと花”を咲かせた「40代選手」

川相昌弘

 41歳の能見篤史と43歳の福留孝介(いずれも前阪神)が戦力外通告を受けながら、現役続行を目指している。能見はオリックスへ、福留は中日への移籍が決まった。12月7日に行われた12球団合同トライアウトでも、48歳の新庄剛志が引退から14年間のブランクを経て、現役復帰に挑戦した。落合博満や門田博光のように、40歳を過ぎても主力を張りつづけ、FAなどの好条件で他球団に迎えられた例もあるが、能見や福留同様、引退危機に直面しても、現役続行にこだわった40代の選手も少なくない。

 引退セレモニーをしたのに、一転現役続行となったのが、巨人の2番打者として活躍した送りバントの達人・川相昌弘である。2003年、プロ21年目の川相は、8月20日の横浜戦で世界新の通算512犠打を達成。この快挙を区切りとすることなく、40歳になる翌年も現役を続けるつもりだった。

 だが、シーズン終盤の9月7日、原辰徳監督から来季の1軍守備走塁コーチ就任を要請される。1週間悩んだ末、同14日、現役への未練を断ち切り、指導者への転身を承諾。この日のヤクルト戦のスタメン出場が引退試合となり、試合後、引退セレモニーも行われた。

 ところが、同26日、原監督が「読売内の人事異動」で電撃解任され、川相は宙に浮いてしまう。10月3日までの1週間、球団側からは何の連絡もなく、その後、堀内恒夫監督の新体制で用意されたポストも、2軍内野守備走塁コーチに変わっていた。一連の対応に納得できない川相は、一転現役続行を希望したが、球団側は「巨人では難しい」と回答してきた。そこで「巨人がダメなら、他球団でも構わない」と訴え、同6日、自由契約になった。

 そんな川相に興味を示したのが、同8日に就任したばかりの中日・落合博満監督だった。一芸に秀でた選手を好む落合監督は「ああいう選手がいれば助かる」と獲得に前向きな姿勢を見せた。

 このラブコールに応え、川相も中日の秋季キャンプにテスト生として参加。合格を勝ち取った。年俸は9000万円から3分の1の3000万円(推定)に下がったものの、「一度引退した身なので十分。巨人戦でできるだけ活躍したい」と闘志を新たにした川相は、翌04年6月24日の巨人戦で左翼席に古巣を見返す移籍第1号。巨人ファンで埋まった右翼席からも大拍手を浴びた。

 川相は42歳の06年まで3年間、中日でプレーし、2度目の引退試合となった同年10月15日の横浜戦で、通算533個目の送りバントを成功させている。

 18年間在籍した球団から“絶縁”を通告されながらも、41歳にして、移籍先で“最後のひと花”を咲かせたのが、佐伯貴弘だ。横浜時代は、98年7月15日の巨人戦で、ボークによって右飛が無効となった直後、劇的な同点2ランを放つなど、38年ぶりの優勝に貢献。オールスターも三度出場した佐伯だったが、10年は若手中心のチーム方針から出場わずか10試合にとどまり、2軍調整中の9月10日、戦力外通告を受けた。

 球団側は、コーチとして残す考えはなく、解説者など外部での経験を積んでも、将来呼び戻す保証もないことを伝えてきた。契約更改の際に「貰った祝儀袋の中身が図書券だった感じ」と不満を漏らすなど、歯に衣着せぬ発言の数々が心証を悪くしたとみられ、事実上の絶縁通告だった。

 球団側は引退試合を用意するつもりだったが、佐伯は辞退し、現役続行にすべてを賭けた。国内でオファーがなければ、韓国などの海外も辞さない覚悟で練習を続けていた佐伯に朗報が舞い込んだのは、日本シリーズ終了後。ロッテに敗れ、日本一を逃した中日が、敗因のひとつとなった打線を強化する方針から、佐伯の獲得を決めたのだ。

「今、頭にある言葉は、感動と感謝。この年齢になっても、新しい挑戦をさせてもらって、うれしい」と、佐伯は新天地での活躍を誓ったが、翌11年は開幕から13打数無安打と1ヵ月以上も結果が出ない。

 そんな不振にもかかわらず、落合監督は5月20日の西武戦で、移籍後、初スタメンに起用。これが吉と出た。2打席目にシーズン初安打となる中前安打を放って吹っ切れた佐伯は、0対5の9回にも左越え二塁打で反撃の狼煙を上げ、1点差に追い上げたこの回二度目の打席で逆転の左前2点タイムリー。41歳では球団史上初の1試合4安打を記録するオマケもついて、勝利の立役者となった。

 試合後、お立ち台に上がった佐伯は声を振り絞るようにして言った。

「夢……夢ですね。もともとはなかった1年。中日、落合監督、チームメイト、ファンの皆さんに何とか恩返ししたいと思っていた」

 この年を最後に現役引退。14年から横浜時代の同僚でもある中日・谷?元信監督の下で2軍監督や1軍守備コーチなどを務めた。

 監督まで務めながら、42歳で一兵卒として再出発したのが、野村克也だ。77年の南海監督解任後、「生涯一捕手」を宣言してロッテに移籍。1年で自由契約になると、43歳で西武に移籍し、45歳まで現役を続けた。この控え選手時代の辛い体験が、後のヤクルト監督時代に、日本シリーズで杉浦亨の代打サヨナラ満塁弾を引き出すなど、力の衰えたベテラン選手の起用法に大きく役立った。

 野村の43歳を上回る46歳で自由契約を経て移籍したのが、09年オフの工藤公康。横浜退団後、古巣の西武と楽天が獲得に動き、16年ぶりに西武復帰をはたした。96年に自ら申し出て巨人を自由契約になり、43歳で日本ハムに移籍した落合も含めて、ボロボロになるまで現役を全うした3人が、監督として日本一になったのは、決して偶然ではないように思える。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2020」上・下巻(野球文明叢書)

週刊新潮WEB取材班編集

2021年1月3日 掲載

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