闘病中の手紙が解き明かしたルー・ゲーリッグの真実――最後まで誇りを失わなかった“不屈のヒーロー”<SLUGGER>

闘病中の手紙が解き明かしたルー・ゲーリッグの真実――最後まで誇りを失わなかった“不屈のヒーロー”<SLUGGER>

エレノア夫人(左)とゲーリッグ(右)。ゲーリッグの写真にはこのように紳士的な笑みを浮かべた姿が多く、穏やかな人柄がうかがえる。(C)Getty Images

プロ野球ドラフト会議の司会を務めたことでも知られる元パ・リーグ広報部長にしてメジャーリーグ解説者のパンチョこと故・伊東一雄氏は、著書でルー・ゲーリッグのことを“ザ・クワイエット・ヒーロー(静かなる英雄)”と呼んでいた。同時代に同じヤンキースで活躍したベーブ・ルースが気ままな放蕩児として知られたのに対し、ゲーリッグは物静かで忍耐強い人格の持ち主だったからだ。

 その不屈さが、2130連続試合出場の偉業をゲーリッグに達成させた。球界で最も頑強な選手として知られた彼が、筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病のために37歳の若さでこの世を去ったのは、まさに歴史の皮肉と言うしかない。だが、そのような不幸に見舞われてもなお、ゲーリッグは最後まで誇り高く生きた。
  6月2日の「ルー・ゲーリッグ・デー」初開催にあたって、MLB公式サイトはゲーリッグについての特集をいくつも組んだ。その中に、闘病中にゲーリッグが遺した手紙についての記事がある。2005年に伝記『Luckiest Man: The Life and Death of Lou Gehrig』を著したジョナサン・エイグは、ゲーリッグが医師との間に交わしていた手紙を数多く発見。そこからは、病状が悪化する中で楽観と恐怖の間を揺れ動きながらも、ゲーリッグが現役時代と何ら変わらぬ勇気と忍耐を示していたことが分かるという。

 ALSが不治の病だということは、ゲーリッグは診断が下された当初からすでに知っていたようだが、それでも彼は希望を捨てようとはしなかった。1939年12月、ALSから奇跡的に回復したとされる指揮者アル・ライザーと会った後、ゲーリッグは「私はヒーローになりたいわけではないし、子供のように泣きわめくのはもっと嫌だ。だが、この病気が治るということがもし事実であるなら、そのことは知りたい」と希望を込めて書いている。
  この手紙を受け取った主治医ポール・オレアリーは、おそらくライザーの症状はALSではなく、もっと軽度の病気だったのだろうと察した。だが、ゲーリッグを勇気づけるために「あなたも同じように治る可能性が非常に高い」と返事を書いた。その後、病状が進行するにつれて、ゲーリッグは何度も真実を手紙で問いただしたが、オレアリーはその度にゲーリッグを励ました。

 本人と周囲の願いもむなしく、ゲーリッグの状態は悪化の一途をたどった。それでも、ゲーリッグがオレアリーへ書いた手紙には、夫人のエレノアや友人の病について相談する記述がいくつも残されていた。病床にあっても周囲を気遣う姿に、エイグは「自分が求めていた本当のルー・ゲーリッグ」を見たという。

 いよいよ死期が近づいても、ゲーリッグは取り乱すことはなかった。「自分は果たして、あとどれだけ生きられるのだろうか」。一見弱々しい記述の後にも、「私が自分の現状について、落ち込んだり悲観的になっているとは思わないでほしい。もしその時が来たとしても、私は冷静に受け入れるつもりだ」と続けている。
 
 亡くなる直前の1941年5月、見舞いに訪れたヤンキース時代のチームメイトに対し「良くなったら、またトレーニングを始めるよ」と気丈に語っていたという。すでに体重が最盛期の93kgから41kgまで落ちていたにもかかわらず、ゲーリッグの心には再起への志がまだ残っていたのだ。そして6月2日、最後まで自分を見失うことなく、ゲーリッグはこの世を去った。

 最期を看取ったエレノア夫人は、その後40年以上にわたって健在だったが、一度も再婚することはなかった。晩年に発表した回想録では、「たとえ他の男性に20年間尽くしてもらったとしても、夫と過ごした2分間で得た喜びや悲しみと引き換えることはできない」と記している。

 今年からMLBで新たに「ルー・ゲーリッグ・デー」が制定されたのは、ゲーリッグが単に偉大な選手だったから、というだけではない。現役時代、手首の骨に17か所もの裂傷を作りながら試合に出続けた不屈の闘志を、難病と闘う中でも持ち続けていたからだ。80年前のゲーリッグが闘病する姿は、今も同じALSに苦しむ患者に勇気を与えている。今後もゲーリッグは、MLBが生んだ最大のヒーローの一人であり続けるだろう。

構成●SLUGGER編集部
 

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