ドラフト戦線に突然現れた“無名の155キロ右腕”、柴田大地が辿った波瀾万丈すぎる球歴【前編】

【プロ野球ドラフト会議】日本通運に突然現れた“無名の155キロ右腕”に注目集まる

記事まとめ

  • 10月11日に開催されるプロ野球ドラフト会議まで1週間を切り、最終段階を迎えている
  • そんな中、日本通運に突然現れた無名の155キロ右腕が、にわかに注目を集め始めている
  • 他には風間球打、小園健太、森木大智の高校生三羽ガラスが注目を集めている

ドラフト戦線に突然現れた“無名の155キロ右腕”、柴田大地が辿った波瀾万丈すぎる球歴【前編】

ドラフト戦線に突然現れた“無名の155キロ右腕”、柴田大地が辿った波瀾万丈すぎる球歴【前編】

実力派投手がひしめく今年のドラフト。そのなかにあって柴田の存在はにわかに注目度が増している。写真:徳原隆元

野球選手にとっての“運命の日”。プロ野球ドラフト会議が、10月11日に開催される。

 今年は風間球打(ノースアジア大明桜)、小園健太(市立和歌山)、森木大智(高知)の高校生三羽ガラスが1位指名候補として注目を集めている。だが、こうした誰もが名前を知っている選手だけでなく、あっと驚く“隠し球”の発掘も、各球団スカウトの腕の見せ所だろう。

 ドラフトまで1週間を切ったまさに最終段階。社会人野球の強豪・日本通運に突然現れた無名の155キロ右腕が、にわかに注目を集め始めている。

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「日通(日本通運)にムチャクチャ球の速いピッチャーがいる。秋のドラフトの隠し球らしい」

 そんな情報(噂話?)を耳にしたのは今年の春先のことだ。

 情報は本当だった。5月のとある日のオープン戦。日本通運が8回の守備に就くと、見慣れない投手がリリーフとしてマウンドに上がった。躍動感のあるオーバーハンドから、ときおり声を挙げながら力強く腕を振り、伸びのあるボールを投げ込んでくる。コントロールにはバラつきがあったが、ストレートはセットポジションからでもほとんど140キロ台後半を計測。そしてMAXはなんと155キロを叩き出した。

 この試合を観戦していた人がネット裏から撮影した映像がYouTubeで拡散され、熱心なファンとプロのスカウトの注目を集めることになった。直後に行なわれた社会人野球東北大会、予選リーグのトヨタ自動車東日本戦で、彼は9回から登板。1イニングを無失点に抑えている。

 もともと社会人野球に関する情報は、高校野球などと比べると格段に少ない。慌ててチームのHPをチェックした。

 日本通運の柴田大地投手。右投げ右打ち。身長180センチ。日体大卒。入社2年目……。たしかに今年がドラフト解禁年になる。だが、その存在はまったくと言っていいほどの“無名”。野球雑誌などを見ても、なかなか名前や記録が出てこなかった。

 それもそのはず。この東北大会が、彼にとって5年10か月ぶりとなる公式戦での登板だったのだ。大学時代の記録は、公式戦登板ゼロ。4年生になる春に右肘の内側側副靱帯再建術(トミー・ジョン手術)を行ない、そこから1年半以上もリハビリに費やしてきた。この春、実戦のマウンドに復帰したばかりだという。

 もう少し遡って高校時代まで調べてみると、ポツポツと足跡が見えてくる。
  日体荏原高校3年の夏。東東京大会で2試合を無失点で勝ち上がり、4回戦でこの大会に準優勝した日大豊山と対戦。豊山のエース吉村貢司郎(国学院大―東芝)と投げ合い、3-5で敗れている。

 だが、このときの背番号は10番。ということは、エースは別の投手で、柴田は2番手以下ということになる。いったいどんな球歴を経て今に至ったのだろう?

 この“無名”投手の足跡を、彼に関わった多くの人の証言で追いかけてみた。

 日体荏原で監督を務める本橋慶彦は、取材を申し込むと、「え? 柴田を取り上げてくれるんですか?」と驚きつつ、嬉しそうに高校時代のことを話してくれた。

「あいつ、なんか応援したくなるヤツなんですよ」

 本橋はしみじみと言う。それは、マウンドに上がった時の柴田の立ち振る舞いから生まれる感情だ。

 本橋はよく部員たちに「他人(ひと)に勇気を与えられるような選手になれ」と話していた。その言葉を実践していたのが柴田だった。一球一球声を出し、「打ってみろ」とばかりに気迫を漲らせてボールを投げ込む。ピンチになっても下を向かず、野手に声を掛け鼓舞する。打ち取ったら全身でガッツポーズ。だから後ろを守る野手だけでなく、ベンチにまで活気が生まれて来る。

「『お前、そんなに凄いピッチャーだったっけ?』と思うくらい雰囲気があるんです」と本橋は笑う。だが、そういう姿を見る機会は、あまり多くはなかった。試合で投げるよりも、走ったり、トレーニングをしている時間のほうが長かったからだ。
  たびたび見舞われる肘と腰の痛み。

「頑張るヤツだから、頑張りすぎて怪我をしてしまうんです」

 本橋は言う。もともと弱いところに、限界を超えてやってしまう。要領の良い選手であれば、適度にサボっていただろう。だが、野球も性格も不器用な柴田にはそれが出来なかった。その結果、故障を繰り返す。

 野球選手にとって、ボールを持たない練習というのは決して楽しい時間ではない。ましてケガが続けば目標も作りにくくなる。

 現在、神奈川県の立花学園で監督を務める志賀正啓は、当時、日体荏原に在職し、野球部の助監督を務めていた。

 志賀は、柴田を「ほっておけない子」と表現する。

 リハビリが長引く柴田に、「毎日、グラウンドにも出られず、野球が出来なくても、心や頭は鍛えられるんだよ」と言って読書を勧め、実際に何冊か自分の持っていた本を貸した。理科教諭の志賀は、柴田のクラスの授業も受け持っていた。正直言って、勉強は得意ではなかった。ただ、「これを読んでみろ」と言って渡した本は、いつも熱心に読んでいた。そこに書かれている人物や内容に影響を受け、心を動かしているとがわかる。そういう素直さに触れると、あれこれ面倒を見たくなるのだ。

 中学生のスカウティングも担当していた志賀は、地元の硬式チームの試合や練習場によく足を運んでいた。柴田は彼が直接声を掛けて誘った選手だった。

 大田区にある羽田アンビシャスに所属していた柴田。そこまで名前の売れた存在ではなかったが、マウンドに上がるとイキの良いボールを投げている。その年は、大田シャークボーイズ(現・大田水門ボーイズ)の鈴木健介を筆頭に、何人か力のある投手の入学が決まっていた。だから、「コイツをエースに育てるんだ! というよりも、みんなで競い合っていけば層の厚い投手陣になるのでは、と期待していました」と志賀は言う。
  本橋、志賀がともに指摘するのは、柴田の身体能力の高さ。とくに地肩の強さと身体の柔らかさは、部員数100人を超えるチームのなかでも群を抜いていた。

 それゆえ、身体が万全の時には惚れ惚れするようなキレのあるボールを投げる。だが、勢いだけで投げているから、ちょっとでもバランスを崩すと、なまじボールの力があるだけに、身体のどこかに必要以上の負荷が掛かる。それが度重なる故障の原因となっていた。

 1年生の夏を終えた新チームで、鈴木が上級生たちを押しのけてエースナンバー(1番)を背負う。鈴木は柴田と背丈はさほど変わらないが、入学当時から身体がある程度出来上がっていて馬力もあった。

 一方、柴田は背番号11番の控え投手。一学年上には、アレックス・ラミレス(前・横浜DeNAベイスターズ監督)の甥であるラミレス・ヨンデル(現・群馬ダイヤモンド・ペガサス)がいて、背番号20番の控え投手だった。

 その秋の東京都大会で日体荏原はベスト8まで勝ち進み、準々決勝で二松学舎大付に0-1で惜敗している。東京を代表する強豪相手に接戦を演じたことで、この試合で好投した一学年上の古川旺司、鈴木、柴田らを、高校野球専門誌が「荏原の強力投手陣」と取り上げたこともあった。 鈴木は、柴田と少年野球時代に地域の選抜チームで一緒になったことがあり、お互いをよく知っていた。中学時代の実績は鈴木のほうが上。「野球センスとかでとくに驚くようなことはなかった」と当時を振り返る。

 ただ、自分にはない長所があると感じていた。それは、「リミッターを外せるところ」と表現する。一緒に練習していると、柴田は「なんでここまでやれるんだ?」ということが出来てしまう。「あいつ、良い意味でバカなんです」と鈴木は親しみを込めて笑う。

 みんなで筋力トレーニングをしていた時、最初はマニュアル通り20キロの負荷でやっていたのだが、「お前は50キロでやれよ」と囃し立てられると、「よっしゃー」と言って本当にやってしまう。そういうノリの良さがチームメイトに愛され、試合になったら応援される。

 柴田が投げられるようになった時には、そのボールを見て、「恐怖を感じた」と言う。ライバルの持つ潜在能力の高さに気付いた瞬間だった。

 鈴木、柴田の二枚看板でさらなる上位進出が期待されていた日体荏原だが、部内の不祥事で躓き、翌春の大会を辞退(記録は不戦敗)。責任を取る形で、本橋は監督を退任する。

 だが、一度狂った歯車はなかなか戻らず、夏は初戦で実践学園に延長15回引き分け再試合の末、1-2で初戦敗退。続く秋はブロック予選で東亜学園に敗れて都大会への出場も出来ず。翌春も都大会1回戦で都立千歳丘に2-3で惜敗した。

 チーム再建を託され本橋が監督に復帰したのは、彼らが3年生になった時だった。当時を振り返り、「途中で現場を離れることになり、彼らにずっと申し訳ない気持ちでした。最後だけでも面倒を見ることが出来て、少しだけ責任を果たせたかなと思っています」と申し訳なさそうに言う。
  本橋はこの翌年、再び監督を退任し、都立雪が谷を甲子園に導いたことがある相原健志(現・郁文館高校助監督)が新監督に就任する。そして、5年間指揮を執った相原の退任に伴い、今春から再復帰を果たしている。柴田が在籍した3年間は、チームの混乱期だった。それだけに、彼の明るさがチームメイトを助け、活気づけていた。

 最後の夏の大会前、本橋は柴田と鈴木を呼び、大会での起用法を話し合った。このとき、柴田だけでなく鈴木も肘に不安を抱えていたため、継投は不可避だった。

 本橋から「どっちが先に行く?」と聞かれ、柴田が先発、鈴木がリリーフで待機するという形が決まった。

 大会が開幕すると、柴田が調子を上げ、初戦の都立紅葉川戦で完封(6回コールド)。続く3回戦は駿台学園を柴田-鈴木のリレーで完封し、冒頭のエース吉村を擁する日大豊山との4回戦に勝ち進んだのだった。ちなみにこの大会で、柴田のストレートの球速は、MAX142キロを記録している。

 夏の大会後、ともに大学で野球を続けることを希望。まず鈴木は富士大(岩手県)への進学が決まる。かたや日体大を希望していた柴田は、日頃の勉強嫌いがここでアダとなった。 当初、柴田は附属校の内部進学を目指していたが、学内審査で定員から漏れてしまう。慌てて大学の野球部のスポーツ推薦に方向転換するのだが、こちらも全国レベルで実績のある選手がエントリーしてくるだけに、「東東京大会4回戦進出」の柴田は苦戦を強いられ、なかなか合格が出ず、いつまでも保留扱いとなっていた。

「高校で終わらせてはいけないと思ったんです」と本橋は言う。

 やむをえず、別の大学にも練習参加して受け入れ先を探した。すると、ある大学の監督が高く評価し、「日体大さんが採らないなら、ウチで面倒を見ます」と手形を出してくれた。

「日体大がダメでも、とにかく野球を続けたい」と考えていた柴田は気持ちを切り替え、その大学での4年間をイメージし始めていた。

 話がほぼ固まりかけた段階に来て、その監督が、筋を通すという意味で、日体大の古城隆利監督に連絡を入れた。事情説明を受けた古城監督は、「少し待っていただけますか」と話を一度止めてもらう。

 枠が足りずに手をこまねいていたが、附属校の選手だけに、出来ることなら手放したくはない。古城は最後のお願いのつもりで大学関係者に再検討を依頼し、もう一度、スポーツ推薦の入学内定者のリストを見直した。
  そして苦心惨憺しながら、定員25名のスポーツ推薦の最後の1枠をなんとか確保。そこに柴田をねじ込むことが出来た。こうして二転三転の末、柴田は最初に希望していた日体大への入学が決まった。

 日体大で、柴田は、野球人生に大きな影響を与えたひとりの指導者と出会う。辻孟彦投手コーチだ。

 現役時代は日体大のエースとして、4年生の春にリーグ新記録のシーズン10勝を挙げ、リーグ優勝に貢献。2011年のドラフトで指名を受け、中日ドラゴンズに入団した。

 プロ引退後、母校に戻り投手コーチに就任。近年は毎年のように日体大の投手がドラフトで上位指名を受けてプロ入りしていることから、その育成能力の確かさに評価が高まっている。

 辻は、本橋や志賀が種を蒔き、芽を出させた柴田という苗木に、水や肥料を与える役割を果たしていた。その苗木は、大学4年間では花を咲かせることはなかったが、土の下にしっかりと根を張らせていった。

―――後編へ続く―――

取材・文●矢崎良一

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