もはや隠し球じゃない――ドラフト戦線に突然現れた“無名の155キロ右腕”柴田大地が辿った波瀾万丈すぎる球歴【後編】

『無名の155キロ右腕』柴田大地に注目 トミー・ジョン手術のリハビリ中でも150キロ台

記事まとめ

  • 今年のドラフト会議は『不作』とも言われるが、柴田大地が注目を集め始めている
  • 柴田大地は高校時代から故障を繰り返し、進路決定後にトミー・ジョン手術も受けている
  • しかし、柴田大地はリハビリ途上でも投げるたびに150キロ台を連発している

もはや隠し球じゃない――ドラフト戦線に突然現れた“無名の155キロ右腕”柴田大地が辿った波瀾万丈すぎる球歴【後編】

もはや隠し球じゃない――ドラフト戦線に突然現れた“無名の155キロ右腕”柴田大地が辿った波瀾万丈すぎる球歴【後編】

高校から名門・日体大へ進学した柴田。彼が入った当時のチームはプロも注目する逸材の宝庫だった。写真:徳原隆元

いよいよ目前に迫ってきた今年のプロ野球ドラフト会議

 投手では、風間球打(ノースアジア大明桜)、小園健太(市立和歌山)、森木大智(高知)ら逸材が揃う高校生に対して、大学・社会人は、隅田知一郎(西日本工大)、廣畑敦也(三菱自動車倉敷オーシャンズ)くらいしか1位指名候補に名前が挙がらず、「不作」の声もある。そんななか、ここに来て、にわかに注目を集め始めているのが、155キロ右腕・柴田大地(日本通運)だ。

 前編に引き続き、高校時代から故障を繰り返し、なかなか表舞台に立つことのできなかった無名の投手が、いかにしてドラフト候補にまで登り詰めていったのかをレポートする。

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 紆余曲折を経て、日体荏原高校から日体大に入学した柴田大地。彼が在籍した時の日体大投手陣は、まさに素材の宝庫だった。

 一学年上に松本航(18年西武ドラフト1位)、東妻勇輔(18年ロッテドラフト2位)。同じ学年に、吉田大喜(19年ヤクルトドラフト2位)。一学年下には森博人(20年中日ドラフト2位)がいた。

 いずれも高校時代から注目されていた逸材ではあったが、自身もプロ野球を経験している辻孟彦投手コーチの指導を受け、もうひとまわりスケールアップしてプロに巣立っていった感がある。もちろん、プロに行っていない者の中にも、ポテンシャルの高い投手がひしめいていた。

 そんななかでも、柴田は目を引く存在だったと辻は言う。
  ストロングポイントである地肩の強さは飛び抜けていた。ブルペンに入ると、物凄い球を投げ、ボールの力は松本や吉田と比較しても遜色がなかった。だが、周囲を驚かせたのも束の間、入学早々に肘を痛める。そこからは、故障し、投げられるようになったら、また故障、という繰り返しだった。

 身体が柔らかく、筋力的にも高校時代より成長している。ただ、高性能のエンジンに対して、そこから生み出されるパワーをボールに伝えるための所々のパーツがまだ弱かった。強い腕の振りとしなりは、肘への負担と背中合わせ。そして高校時代から慢性化していた腰痛は、骨格的に腰の左右のバランスが悪さが原因だった。

 辻は「とにかく身体をしっかり作ってから」と、1年生の頃はトレーニングに専念させた。学年が上がるにつれ、「そろそろ戦力になるかな」という周りの期待をよそに、なかなか本格的に試合で投げるまでに至らない。

 辻もまた、取材を依頼すると、「柴田にプラスになるのなら、なんでも話しますよ」と快諾してくれた。「柴田が取り上げてもらえることが嬉しいんですよ」と言う。

「一番期待していたんです。絶対に大学で終わってほしくなかったんで」

 ここでも高校時代の指導者と同じ言葉が返ってきた。辻にとっては、柴田の大学時代の記憶は、リハビリに関するエピソードが多い。これまで教えた選手のなかで、おそらく一番話をしただろう。

 柴田は練習やトレーニングでも、集中すると、黙々と時間を掛けて、一つ一つのメニューに取り組むタイプだ。一度、昼過ぎにリハビリで筋力トレーニングをしている時、「話があるから、終わったら来て」と声を掛けて待っていた。柴田が辻の元を尋ねたのは、もう夕方のあたりが暗くなってから。「忘れてたのか?」と聞くと、「え?」と怪訝そうな顔をする。その日の決められたメニューを、当たり前のように、ひとつも飛ばすことなくきちんと“終わらせて”から来たのだ。

 また、あるシーズンのキャンプが終わった時、野球日誌を提出するように指示した。辻はキャンプ中のものを読みたかったのだが、柴田は1年生の春から書いたものを全部持ってきたという。笑いながらノートを開いてみると、ずっと手を抜くことなく、真剣に書いていたことにあらためて気付かされた。

 やるべきことを飛ばさない。はしょらない。ピッチング同様、何事にも不器用で愚直。だがそれが、柴田にとって最大の長所にもなりうると、辻は感じていた。 柴田もまた、辻を信頼した。だから、言われたことは何でもやろうとした。

 柴田は一度、日誌に「辻さんが“当たり前”だと思っていることが、僕には当たり前じゃない」と書いてきたことがあった。「シンプルに投げろ」と辻がアドバイスした時のことだ。言葉として理解しようとするのだが、身体の動きがそれを実践できなかった。そうやって悩みながら、少しずつ自分のピッチングフォームを作っていった。

 辻は、柴田から学んだことがあるという。

「自発的に取り組むことで、選手はこんなにも伸びるものなんだ」

 柴田の存在は、辻にとっても指導者としての新たな引き出しになっている。

 それにしても、これほど何度も怪我を繰り返し、野球が出来ない時間を過ごしながら、柴田はなぜモチベーションが落ちなかったのだろう?

 辻はこう考えている。

「100人いても、彼にしか出来なかったことでしょう。ただ、そういう人間でなくてはプロには行けない。野球で生きていける人間なんだと思いました」

 日体荏原で指導した本橋慶彦監督も、こう言っている。

「送り出したとき、そうなってほしいとは思っていました。でも、イメージ以上に良くなっていた。大学の古城監督や辻コーチの指導が素晴らしく、彼に合っていたのでしょう」
「日体大に凄いボールを投げる未完の大器がいる」

 それは、チームに出入りする用具メーカーの社員や、一部のプロのスカウトの間では噂になっていた。

 とはいえ、知らない人にとっては、「いまだ公式戦登板ゼロ」の投手でもある。4年生になった柴田は、またしても進路の問題に直面する。

 社会人野球では、故障を抱えていても企業チームに採用されるケースはある。ただその場合、ある程度の実績がある選手なら、「治ればこれくらいの成績が残せる」という“裏づけ”のようなものがあるから、大学側も話を進めやすい。高校、大学と、実績がゼロに近い柴田の場合、企業もなかなか手を出しにくかったはずだ。

 柴田にとって幸運だったのは、日体大という人材豊富なチームに所属していたことだった。同じ学年に、ドラフトに掛かるかどうかのボーダーライン上にいる投手がいた。指名漏れのリスクがあり、そうなったときのために大学側は保険を掛けておきたいし、社会人側もとりあえずアプローチしておく。いわゆる「プロ待ち」という状態だ。

 当時、日本通運を指揮していた藪宏明監督が、日体大に、この投手の練習参加を打診した。日体大の古城隆利監督は「プロ入りの意思が硬いので」と説明したが、藪は「プロ待ちでも構わないので」と言う。「それなら」と古城がある提案をする。

「じつは、もうひとり見てもらいたいピッチャーがいるのですが」

 その“もうひとり”が柴田だった。藪が快諾し、柴田の日本通運への練習参加が決まった。野球界では、こういうケースを「お付き」と呼んでいる。相手の本命の選手にくっつけて、別の選手も見てもらう。そこで、もし目に留まったら採用の可能性も出て来る。柴田にしてみたらチャンスだ。どんな形であっても、採ってもらえたら野球が続けられる。そのためには、まず見てもらわなくては始まらない。

 ただ、この頃の柴田は肘の状態がかなり悪く、一度投げたら、それから数日は投げられない、という状況だった。その“投げられる一日”を、そこにあてるしかない。辻も付きっきりで調整を手伝った。

 また、このとき、日本通運は武田久(元・日本ハムファイターズ)が投手コーチを務めていた。辻とは同じプロ出身ということもあり、二人には付き合いがあった。すぐに連絡を取り、柴田の特徴、現在の状態などを細かく説明した。どんな投手か理解したうえで、見て、判断してもらいたいと思ったからだ。

 そして迎えた練習参加の日。ここで柴田は、ある伝説を残す。それは「一球で採用が決まった」というものだ。 その日、練習開始は昼過ぎからだった。

 クラブハウスで昼食を取っていた藪のところに、コーチが慌ててすっ飛んできた。それも、投手とは別の部門のコーチだ。

「監督。あいつ、凄いです」

 興奮した表情で言う。藪は、自分が採りに行った“本命”の投手のことだと思っていた。ところが違うらしい。もうひとりの、“お付き”のほうだと言う。

 柴田たちはグラウンドに着くと、アップを済ませ、外野でキャッチボールを始めた。

 その一球目。指先を離れた途端、糸を引くような軌道で相手のグラブにボールが吸い込まれた。それを、たまたまコーチが見ていたのだ。

 ブルペンでのピッチングを見終わると、藪は「採るから」と約束した。即決だった。そのかわり、「まず肘を完治させよう。すぐに手術をしろ」と指示した。

「タイミングも良かったんだよ」と藪は言う。
 手術をすれば、少なくとも入社した最初の一年間は投げられない。日本通運は投手の層が厚く、この年も、評価の高い投手の採用が内定していた。柴田を採って、一年間リハビリに専念させても、やりくりには困らない投手陣だと思っていた。もし即戦力が必要なチームであれば、また違った答が返ってきたかもしれない。

 進路が決まると、柴田はすぐにトミー・ジョン手術を受けた。採用内定者として柴田の名前が外に出始めた頃、藪は、ある球団のスカウトから「柴田を採るんだって?」と、声を掛けられたのを覚えている。

「あれはいいよ。2年後が楽しみだね」

 そんな言葉を聞き、藪はあらためて柴田の将来性を確信していた。だが皮肉なことに、藪はその年限りで監督を退任している。

「新しい監督の考え方があるのだし、俺が『大事に育ててくれ』なんて言うわけにもいかない。逆に、投げられない投手を預ける形になってしまって、申し訳ない気持ちもあった。それでも、マネージャーから『柴田が今日、投げましたよ』なんて電話で聞かされたりすると、嬉しい気持ちになるよね。まだ投げているところを、ちゃんと見たことないんだけど」

 藪はそう言って笑った。 1年間のリハビリを経て、今年の春から少しずつ実戦のマウンドに立ち始めた柴田。拡散したYouTubeの映像の頃は、こわごわ腕を振っているようなところがあった。

 バッテリー部門を担当する鈴木健司コーチは、「まだ不安なんだと思います。投げれば、何かしら痛みがあるはずで、その痛みの原因が、張りなのか、手術の影響なのかも、本人も経験がないからわからない状態ですから」と話していた。

 藪に代わり昨年から日本通運を率いる澤村幸明監督も、春先は「まだまだ、ようやく戦力になった段階」と、あえて厳しい見方をしていた。

 社会人野球の主要大会はトーナメントの一発勝負。チームも勝負が懸かっているだけに、期待値だけで選手を起用するわけにはいかない。それでも、「本人も目標にしているようだし、チームに貢献して、そういうところ(プロ)に行けるまでになってほしい」と、期待と不安が半々の気持ちで見守っていた。

 それから約半年。10月2日の都市対抗南関東地区第一代表決定戦、JFE東日本戦。9-0とリードした9回裏、リリーフでマウンドに上がった柴田は、危なげなく三者凡退に抑え、チームの都市対抗出場を決めた。

 この大事な試合での起用は、もちろんチーム内で得た信頼に他ならない。ただ、試合展開的には、あえて投手を代える必要のない場面でもある。この交代は、澤村監督からの最大限の思いやりという捉え方もできる。チームとして、柴田をプロに送り出せる選手と認め、スタンドで見守るスカウトに対して、アピールの場を与えてくれたのではないだろうか。

 今もまだリハビリ途上でもあり、長いイニングは投げていないが、それでも投げるたびに150キロ台を連発するポテンシャルはやはりただ者ではない。

 柴田のポテンシャルを裏付けるデータがある。
 この都市対抗第一代表決定戦で、柴田の投球を独自の機材を用いて計測、分析した人物がいた。彼はプロ・アマ含めた数多くの投手のボールの質を計測し、「ドラフト候補調査隊」の名前でTwitterなどに分析結果を発表している。

 彼は、「4シーム(ストレート)は、球速だけでなくボールのノビを表す“ホップ量”というデータも重要」と指摘する。この“ホップ量”とは、おもにボールの回転数と回転軸から算出するものだという。

「柴田投手のホップ量は、今年のドラフト1位候補の廣畑敦也投手を超え、アマチュアではかなり高いレベルです。ただ、回転軸の傾きが大きいタイプなので、今の段階ではまだ、プロのトップレベルとまでは言えません。しかし、回転数はMLB平均の2300rpmに対して、平均2500rpmを超えており、なかには2800rpmに迫る驚異的な数値を記録している投球もありました。

 回転数が非常に多いという特徴があるので、回転軸をもう少し改善できれば、今年、ルーキーで活躍している伊藤大海投手(現日本ハムファイターズ)や栗林良吏投手(現広島カープ)を超えるホップ量を獲得できる可能性がある、魅力ある投手と言えます」

 つまり柴田は“隠し球”どころか、1位指名候補と同レベル、あるいは凌駕しかねないポテンシャルを持つ投手だったのだ。 日体大の辻コーチは、「気が付くと、いつの間にか、自分の“当たり前”を越えていた」と教え子の成長に目を細める。

 ドラフト直前、辻は自らのTwitterにこう書き込んだ。

「平良投手や澤村投手のようなポテンシャルを持っている。実戦経験が少ないので、今年の実力だけを見れば中位〜下位。来年なら1指名の実力になるかも」

 高校時代のチームメイトの鈴木健介は、富士大を卒業後、北海道の室蘭シャークスに所属している。鈴木も高校卒業時に肘を手術し、大学では故障に苦しんだ。柴田ともよく電話で、「どんなリハビリメニューをやってるの?」と情報を交換し合ったという。

 柴田が150キロを出したと聞いて、「やっぱりな。万全になったら、それくらい出すわ」と驚きはなかった。

 ともに大卒2年目のドラフト解禁年。プロを意識してやって来た。高校時代に最後に対戦した日大豊山の吉村貢司郎も、中学時代から同じ地区のチームに所属していて、よく知る仲。大学卒業時には、吉村が一番上にいて、鈴木がいて、その下に柴田という位置づけだった。こうして柴田が台頭し、吉村も都市対抗予選で好投しアピールした。「俺も負けてられない」と気合いを入れ直している。
 最後に柴田に話を聞いてみた。

「今はマウンドに上がれることが嬉しいですね」

 しみじみと言う。

「高校の時も、大学の時も、思うように投げられなくて、会社にもこの状態で採ってもらって……。わかってはいても、周りを見れば普通に投げている選手たちがいる。焦りもあるし、苦しかった」

 それでも、何度ケガで投げられなくなっても、投げることへのモチベーションを失うことがなかった。なぜ、それが出来たのだろうか?

「“あきらめない”ということは、常に意識していましたね。リハビリをしてても、『このまま終わりたくねえなぁ』って、いつも思ってました。自分に期待しているんです。まだまだ伸びシロがたくさんあると思っていますから」

 悲壮感のない笑顔。この明るい性格が人の心を動かし、「こいつをなんとかしてやりたい」という周囲の思いに後押しされ、節目節目で自分の道を切り拓いてきた。その道が、いよいよプロという夢に届きかけている。

“あきらめない”という、物凄くシンプルだけどとても難しいことを実践すると、こんな奇跡のようなことが起こる。柴田大地の球歴は、そんなことを教えてくれている。

「取材とか受けると、つい『見返す』とか言っちゃうんですけど、それよりも『恩返し』がしたいんです。いろんな人に応援してもらって今があるので。自分がプロに行けたら、その人たちも喜んでくれる。だから、プロに行きたい。プロに行って、160キロを投げて、勝ちたいですね」

 さあ、運命のドラフト会議は10月11日。今度の節目には、果たしてどんなドラマが待っているだろうか?

取材・文●矢崎良一

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