“未完の天才”高橋由伸、“幻のミスター・タイガース”濱中治――プロ3年間で3度長期離脱の石川昂弥に重なる悲運の強打者たち<SLUGGER>

“未完の天才”高橋由伸、“幻のミスター・タイガース”濱中治――プロ3年間で3度長期離脱の石川昂弥に重なる悲運の強打者たち<SLUGGER>

ポテンシャルは名球会級だった高橋だが、故障に泣いてその才能を十全に発揮することができなかった。写真:産経新聞社

5月29日のオリックス戦で走塁中に負傷した中日の石川昂弥が、31日になって左ヒザ前十字靱帯不全損傷の診断を受け、長期離脱を余儀なくされた。

 大砲として期待されながらも、ルーキーイヤーから離脱を繰り返す石川に対して立浪和義監督が思わず「いくら才能があっても怪我してしまうと試合に出られない」と苦言を呈したが、実際に故障で才能を十全に発揮できずに終えた選手は少なくない。ここでは、そんな悲運のスラッガーたちを紹介しよう。

▼高橋由伸(元巨人)
 故障に泣いたスラッガーと聞いて、まず思い出されるのがこの高橋。何しろ、30代後半になっても“未完の天才”という呼称がつきまとっていたほどだ。

 慶応大では通算23本塁打を放ち、東京六大学史上最多記録を29年ぶりに更新した高橋は、1997年ドラフトの最大の注目株となった。当時は逆指名制度が存在していたため、実に9球団が争奪戦を展開。そのなかで高橋が選んだのは巨人だった。

 期待に違わず、高橋はプロ1年目から打率.300、19本塁打を記録するなど活躍。打撃だけでなく、俊足や強肩も備えたトータルプレーヤーぶりも魅力だった。だが、その身体能力の高さが諸刃の剣となった。

 2年目は34本塁打でタイトル争いに食い込んだが、9月に右翼フェンスに激突して鎖骨骨折の重傷。このようなハッスルプレーは高橋の魅力でもあったが、その代償で毎年のように故障が頻発した。05年と06年は腰痛を発症してシーズンの半分近くを棒に振り、09年は1打席に立っただけでほぼ全休と常に怪我との戦いが続いた。

 30代後半を迎えると、出場機会は徐々に減少。それでもシーズンOPSはコンスタントに.800を超えるなど、卓越した打撃技術に衰えはなかったが、15年のシーズン終了後、原辰徳監督の勇退に伴って監督就任を要請され、ユニホームを脱いだ。

 18年のプロ生活で、130試合以上に出場したのは4度のみ。それでも通算1753安打、321本塁打と立派な成績を残したのはさすがだが、もう少し健康だったら名球会入りも確実だったはずで、かえすがえすも故障の多さが惜しまれる。
 ▼石井浩郎(元近鉄ほか)
 石井のプロ野球人生は、病院のベッドの上で始まった。早大、プリンスホテルを経て89年のドラフト3位で近鉄に入団した後、キャンプ直前の健康診断で急性肝炎にかかっていることが発覚。1か月も寝たきりで療養せざるを得なかった。この最初のつまずきは、後の石井の運命を暗示していたのかもしれない。

 病気さえ除けば、石井のキャリアの船出は順調そのものだった。社会人時代に日本代表の4番を打った強打者ぶりを存分に発揮し、1年目はわずか86試合で22本塁打を放って新人王を受賞。そこから5年連続で20本塁打をクリアし、「いてまえ打線」の4番としての地位を確立した。30歳となった94年には、全130試合に出場して打率.316、33本塁打、リーグ最多の111打点と自己最高の成績を残した。

 だが、翌年から石井の運命は暗転する。95年5月、当初は捻挫と診断された右足の怪我が、実は骨折だったことが判明。にもかかわらず、「4番打者としての連続スタメン出場記録」の更新が目前だったためにチームは欠場を許さず、石井は6月上旬まで先発出場して1打席だけで交代することを繰り返した。記録更新を機に戦列から離れ、この年はわずか47試合の出場にとどまった。

 さらに、不幸はこれだけでは終わらなかった。翌年は開幕2試合目に左手を骨折してほぼ全休すると、オフにはトレードで巨人へ放出。新天地では層の厚さに阻まれてあまり出場機会は得られず、2000年に今度はロッテへトレードされてしまう。

 ここでも再び左手を骨折するなど故障に泣き、最後は坐骨神経痛がとどめとなって、横浜(現DeNA)にいた02年に引退を決断する。プロ最初の5年間で127本も放ったホームランは、その後8年間で32本しか上積みできなかった。
 ▼多村仁志(元DeNAほか)
 多村を語るうえでのキーワードは2つある。ひとつは「メジャーに最も近い日本人選手」。昨季、MLBで首位打者を獲得したユリ・グリエルも、DeNA時代に多村の高い身体能力を絶賛していたほどである。そしてもうひとつは、「スペランカー」というありがたくないニックネーム。主人公がちょっとしたことで死亡してしまうテレビゲームに由来するこのフレーズは、故障が多かった多村の代名詞となっている。

 94年のドラフト4位で地元横浜高から横浜に入団し、3年目の97年に一軍デビュー。この年は18試合に出場するも、バックホームの際に肩を捻って腱板を損傷し、リハビリに2年を要する重傷を負うなど、最初から怪我が付きまとっていた。04年のキャンプ終了直前には、なんとポスターの撮影でジャンプした際に捻挫してしまう騒動もあった。

 ただこの年、多村は初の規定打席に到達し、球団史上初めて打率3割・40本塁打・100打点をクリアするという素晴らしい成績を残す。翌年も3割・30本塁打をクリア、06年には第1回WBC日本代表に選ばれるなど、球界を代表するプレーヤーの一人となった。

 だが、いわゆる“スペランカー体質”はその後も変わることがなかった。07年からはソフトバンクに移籍。主力として活躍する一方、故障や疲労による欠場が相変わらず多かった。11年以降は出場機会が急激に減少し、13年には古巣DeNA、16年に中日と渡り歩いて同年限りで引退した。

 22年の長きにわたってプレーしながら、通算1162安打、195本塁打はやや物足りない印象も与える。同時に、まさにメジャーリーガーのようなスケールの大きいプレーは多くのファンの脳裏に焼き付いているはずだ。
 ▼濱中治(元阪神)
 濱中は、長らく空席となっていた“ミスタータイガース”を継ぐはずの男だった。

 97年には、阪神では掛布雅之以来となる高卒新人スタメン出場。その後は一軍と二軍の往復が続いたが、01年に甲子園で放ったプロ初本塁打は何と逆転サヨナラ3ランという千両役者ぶりを発揮した。この年から2年連続で2ケタ本塁打をクリアし、03年は開幕から4番に抜擢。その期待に応え、最初の37試合で11本塁打を量産して虎ファンを歓喜させた。

 だが、事件が起こったのはその矢先だった。5月20日の広島戦で一塁に帰塁した際に右肩を突いて負傷してしまう。にもかかわらず、完治しないまま出場を強行した結果、6月半ばに今度は同じ箇所を脱臼して状態が大きく悪化。翌年にかけて何度も手術を要するほどの重傷となってしまった。06年には田淵幸一の指導で「うねり打法」を身に着け、139試合に出場して打率302、20本塁打と復活したかに見えたが、翌年は一転して大不振に苦しんだ。

 08年からはオリックスへトレード移籍して一時はレギュラーをつかみかけるも、セ・リーグとの配球の違いに苦しんで成績を残せず、11年にヤクルトで引退。15年のプロ生活で残した通算580安打、85本塁打は、若手時代の期待を思えば物寂しさを覚えずにはいられない。

 故障に苦しみ、本来の才能をフルに発揮できなかった選手がいる一方で、アキレス腱断裂を乗り越えて歴代3位の通算567本塁打を放った門田博光や、死球による怪我を繰り返しながらも一流の成績を残した田淵幸一のような例もある。石川も同じように復活して、再び和製大砲としての道を歩んでほしい。

構成●SLUGGER編集部

【関連記事】長打力を示すISOは本塁打王の岡本以上――プロ5年目で見えつつある清宮幸太郎の確かな「成長」

【関連記事】MLBから熱視線が送られる山本由伸の“リアル評”。メジャーでの将来像、スカウトが抱いている疑問符とは?

【関連記事】「疲れているから休ませるは反対」――落合博満が故障者相次ぐ野球界に語りかけた持論。「出続ける方が大事」

関連記事(外部サイト)