“途中解任された名将”マッドンの大先輩?ビリー・マーティンをめぐる愛と憎しみの“三角関係”【ダークサイドMLB】<SLUGGER>

“途中解任された名将”マッドンの大先輩?ビリー・マーティンをめぐる愛と憎しみの“三角関係”【ダークサイドMLB】<SLUGGER>

マーティンはメジャー通算1253勝を挙げた名将ながら、シーズン途中解任は2度、辞任も2度経験。ヤンキースの監督には5度就任して5度解任されている。(C)Getty Images

現地6月7日、エンジェルスのジョー・マッドン監督が電撃解任された。名将と呼ばれる人物がシーズン半ばでクビになるのは異例のことだが、それでも初めてとは言えない。ここではMLBの“名将”途中解任の代表例であるヤンキースのビリー・マーティン監督と、彼をめぐるオーナーのジョージ・スタインブレナー、そして1970年代最大のスターであるレジー・ジャクソンの“三角関係”を見ていこう。

※スラッガー2021年11月号より転載(時系列は21年9月16日時点)

 8月18日、大谷翔平が40号本塁打を放ち、ロサンゼルス・エンジェルスの「左打者」で最多となった。それまでの記録保持者は1982年のレジー・ジャクソンだったが、彼をエンジェルスOBとして記憶している人は少数だろう。72〜74年に3年連続世界一となったアスレティックス、そして77〜78年に2年連続でワールドシリーズを制したヤンキースの主砲というイメージがあまりにも強いからだ。

 そのジャクソンが77年にFAで加わり、ヤンキースにはこれ以上ないほど濃厚なキャラクターが3人揃った。ジャクソン、監督のビリー・マーティン、オーナーのジョージ・スタインブレナー。人一倍エゴが強く、プライドも高い3人は、当然のように反目し合った。チームが好調であれば波風は立たないけれども、そうでなければたちまち暴風が吹き荒れた。

 中でも、マーティンとジャクソンがベンチで激しく口論を演じる場面が、全国中継のカメラで映し出された事件は、今も多くのファンの記憶に焼き付いている。
  78年7月17日、この日ヤンキースはロイヤルズと対戦していた。この時点で、チームは地区首位のレッドソックスから13ゲーム差の4位。ジャクソンは不振でスターティング・メンバーを外される日もあって、不満を抱えていた。「これだけ怪我人が多いとやってられない」と嘆くマーティンに、スタインブレナーは「監督がキャンプから準備していたらこうはならなかった」と苛々を募らせた。

 この日も、4回まで5対1とリードしながら、9回表に抑えの切り札グース・ゴセージが捕まり同点に追いつかれる。延長10回裏、先頭のサーマン・マンソンがヒットで出塁し、ジャクソンが打席に入った。ここまで3打数0安打の4番打者にマーティンは送りバントのサインを出したが、初球はボール。守備陣形を見てマーティンは強攻に切り替えたが、へそを曲げたジャクソンは2球目も、そして3球目もバントを試みた。

 三塁コーチのディック・ハウザーに「監督はスウィングしろと言ってるんだぞ」と諭されても馬耳東風のジャクソンは結局、キャッチャーフライに倒れる。この回ヤンキースは無得点に終わり、11回には続投したゴセージが打ち込まれて7対9で敗れた。

 反省するどころか「走者を進めようとしただけ。俺はレギュラーじゃないらしいからね」と嫌みたっぷりに述べたジャクソンに、マーティンは5日間の出場停止と9000ドルの罰金を命じた。スタインブレナーも「このチームのボスはビリーだ」とこれを支持した。
  実は、2人はその1年前にも同じように全米中継されている試合中にダグアウトでやり合ったことがあった。この時は、ジャクソンの守備での怠慢プレーに怒ったマーティンが懲罰交代を命じたことがきっかけだった。2年続けての監督とスター選手の衝突はメディアからも大きな注目を集めた。

 処分が明けた23日、取材に応じたマーティンは「ジャクソンが口を閉じない限り試合には出さん。それをジョージが気に入らないなら、俺をクビにすればいいだけだ」と息巻いて、さらにまくしたてた。「まったくお似合いの二人だな。一人は生まれつきの嘘つき、もう一人は前科者だ」。前科とは、スタインブレナーが元大統領リチャード・ニクソンに対する不正な政治献金で、オーナー資格を停止された前歴を指していた。

 たちまちマーティンはスタインブレナーの逆鱗に触れ、辞任に追い込まれた。会見では涙ながらに「ヤンキース、そしてファンに対して申し訳ない」と謝罪した。しかし奇妙なことに、スタインブレナーは6日後のオールド・タイマーズ・デーにマーティンを招待。しかも大観衆の前で「80年シーズンの監督、ビリー・マーティンです」と紹介したのだ。理解不能の茶番に憤慨したジョー・ディマジオは、二度とオールド・タイマーズ・デーに出ないと吐き捨てた。
  ともあれ、後任のボブ・レモン監督の下でヤンキースは驚異的な快進撃を続け、首位レッドソックスと同率首位でシーズンを終える。優勝決定戦は伏兵バッキー・デントが決勝本塁打を放ち、史上有数の大逆転を実現。ワールドシリーズでも2年続けてドジャースを下した。マーティンの失言は明らかにターニング・ポイントとなったのだ。

 野球という共通項がなかったら、マーティンとジャクソン、そしてスタインブレナーの人生が交差することはおそらくなかっただろう。カリフォルニア生まれの貧しく血の気が多いイタリア系、ペンシルベニア出身の饒舌で不遜な黒人、造船業で巨額の資産を築いた尊大なドイツ系ビジネスマン。それぞれが放つ強烈な磁力によって、3人はニューヨークのブロンクス動物園?へ引き寄せられた。

 最初にヤンキースと関わったのはマーティンだった。マイナー時代の上司だったケイシー・ステンゲル監督の推薦によって50年に入団、52年には正二塁手となった。だが、何度も乱闘騒ぎを起こしたりと、暴れん坊ぶりも相当だった。

 それでも、小柄ながらも闘志あふれるプレースタイルや大舞台での強さでニューヨークのファンからの人気は高かった。スーパースターのミッキー・マントルやホワイティ・フォードとも親友同士だった。しかし「紳士の球団」を自負するヤンキースの首脳にしてみれば、マーティンの奇抜で粗暴な行動はブランドイメージにふさわしくないものであり、ジョージ・ワイスGMは放出の機会を窺っていた。
  そこに発生したのが57年の「コパカバーナ事件」だった。ニューヨークの有名なナイトクラブに繰り出したヤンキースの面々と酔客の間で揉め事が生じ、マーティンがその中の一人の顎を砕いたのである。実際に殴ったのは彼ではなかったとも言われているが、いずれにしろワイスにとってはマーティンを追い出す格好の口実になり、アスレティックスへトレードした。レッズ時代の60年にもカブスの投手ジム・ブルワーを殴り、顔を骨折させて100万ドルの損害賠償を要求される。この訴訟は10年近く続き、最終的に1万ドルを支払って決着した。

 引退後は69年にツインズ監督に就任、さっそく地区優勝を果たしながら、8月に主戦投手デーブ・ボズウェルと(例によって)酒場で喧嘩になり、20針を縫う怪我を負わせて1年で解任。その後、タイガースとレンジャーズでも結果を残して、名将との評判を揺るがぬものとすると、75年に古巣ヤンキースの監督に招かれた。

 その頃、スタインブレナーはすでにヤンキースのオーナーになっていた。クリーブランドの出身とあって、最初はインディアンスの買収に乗り出したが失敗。だが、73年にヤンキースを買収すると、沈滞が続いていた名門球団を蘇らせる。その切り札の一つがマーティンであり、76年には12年ぶりのリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズではレッズに1勝もできなかったが、同年オフに選手に移籍の自由を認めるフリー・エージェント制度が導入された。資金には事欠かず、本拠ニューヨークの魅力も大きいヤンキースには願ってもない展開だった。
  そしてそのタイミングで、当時オリオールズに所属していたジャクソンもFAとなる。ジャクソンは、66年にドラフト全体2位でアスレティックスに指名されてプロ入り。なお1位指名権を持っていたメッツは、捕手が欲しいという理由でスティーブン・チルコットを選択した。チルコットはメジャーにすら上がれず、ジャクソンを取らなかったのはドラフト史上最悪の大失敗とも言われている。ヤンキース入りするずっと前に、彼はニューヨークの英雄となっていたかもしれなかったのだ。

 レギュラー2年目の69年に前半戦だけで37本塁打を放ち、一躍若手のトップスターになる。同年は47本でタイトルにこそ届かなかったが、OPS1.018はリーグ1位。73年は32本塁打、117打点の二冠を獲得してMVPに選ばれ、ワールドシリーズでもMVPに輝いた。

 しかし、アスレティックス時代も「俺こそ最高の野球選手。うぬぼれと言われても嘘はつけないからな」と嘯くなど、歯に衣着せぬ言動でワンマンオーナーのチャールズ・フィンリーと何度も衝突した。FA制の導入が決まると、残留の見込みはまったくないと悟ったフィンリーは、ジャクソンをオリオールズへ放出したのだった。FA市場の目玉だったジャクソンだが、意外にもヤンキースが一番のターゲットにしていたのはオリオールズの二塁手ボビー・グリッチだった。しかしエンジェルス行きを望んだグリッチに袖にされると方向転換し、ジャクソンに5年300万ドルの好条件を提示して獲得に成功した。

 ジャクソンは入団早々「俺のいるチームなら、レッズに4連敗したりしない」と言い放ってチームメイトの反感を買った一方、32本塁打、110打点と好成績を収めた。そして、ドジャースとのワールドシリーズでは、第5戦の最終打席から第6戦にかけて圧巻の4打数連続本塁打。ベーブ・ルース以来史上2人目の快挙であり、対戦相手のスティーブ・ガービーまでもが「こっそり拍手を送っていた」ほどだった。その栄光の日から、マーティンの退陣まで9ヵ月しか経っていなかった。
  79年6月、オールド・タイマーズ・デーでの宣言より1年早く、マーティンはヤンキースの指揮官に電撃的に復帰した。もっとも、ミネソタのホテルでセールスマンに暴行を働き、同年オフに解任。「もうヤンキースの監督はこりごり」として、80年はアスレティックスの監督を引き受けた。だが以後も83、85、88年にヤンキースへ舞い戻っては、それぞれ1年限りで追い出された。これほど何度も同じ相手と離縁・復縁を繰り返した“カップル”はいないのだろう。いがみ合いながらも、スタインブレナーはマーティンの監督としての腕を買っていた。それだけでなく、人間としても強く惹かれていたとしか思えない。

 ジャクソンは82年、再びFAとなってエンジェルスへ移籍。のちにスタインブレナーは「ジャクソンを引き留めなかったことが、私の一番の失敗だった」と悔やんだ。87年に古巣アスレティックスでプレーしたのを最後に、通算563本塁打で引退。93年にはヤンキースのキャップで殿堂入りした。同年スタインブレナーの特別アシスタントとしてヤンキースに戻り、今春にその座を退くまで、長い間チームの重鎮的存在であった。

 マーティンは89年のクリスマスに自動車事故でこの世を去った。その直前、彼はスタインブレナー主催のクリスマス・コンサートに顔を出していた。スタインブレナーの息子ハルは「事故の知らせを聞いて父は取り乱していた。彼ら二人の特別な関係は、他の人たちには理解できなかっただろう」と語っている。
  マーティンの墓所は、ベーブ・ルースの墓から150フィート――離れたところに設えられ、その費用を持ったのはスタインブレナーだった。墓碑銘には「彼以上に偉大な競争者はいなかった」と刻まれている。

 一方、ジャクソンのマーティン評は冷ややかなものだった。「彼の選手の扱い方は受け入れられるものではなかった。黒人やユダヤ人に対しては特にそうだった。彼の人間性に尊敬の念を抱くのは難しい」と突き放し、「彼をよく知っているというつもりもない。目と目を合わせることさえなかったからね……死者に鞭打つつもりはないが、真実は真実だ」とも付け加えている。

 それでも、現在ヤンキー・スタジアムに飾られている永久欠番の列において、マーティンの1番とジャクソンの44番は隣り合わせだ。10年にはスタインブレナーも鬼籍に入り、健在なのはジャクソンだけとなったが、今でも誰か1人が話題になるたび、残る2人の顔が自然に浮かんでくる。望もうが望むまいが、彼ら3人は切り離すことのできない間柄なのだ。

文●出野哲也

【著者プロフィール】
いでの・てつや。1970年生まれ。『スラッガー』で「ダークサイドMLB――“裏歴史の主人公たち”」を連載中。NBA専門誌『ダンクシュート』にも寄稿。著書に『プロ野球 埋もれたMVPを発掘する本』『メジャー・リーグ球団史』(いずれも言視舎)。
 

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