最初の成功例は“マサカリ兆治”。そしてマウンドに感謝を捧げた桑田――トミー・ジョン手術で再起した不屈の名投手5選<SLUGGER>

最初の成功例は“マサカリ兆治”。そしてマウンドに感謝を捧げた桑田――トミー・ジョン手術で再起した不屈の名投手5選<SLUGGER>

桑田が復帰登板で見せた祈りのポーズ。一時は引退も覚悟しながら、マウンドに戻ってこれた喜びが表れている。写真:産経新聞社

かつて、ヒジの靭帯断裂は投手にとって事実上の死刑宣告に等しかった。しかし、現在はトミー・ジョン手術(側副靱帯再建術)によって100%とまでは言えなくともかなりの確率でマウンドに復帰できるようになった。

 ダルビッシュ有(パドレス)や大谷翔平(エンジェルス)も含め、メジャーでは数多くの大物投手がトミー・ジョン手術を受けいるが、日本ではまだそこまで浸透していない印象もある。ここで改めて、ヒジにメスを入れて再起に成功した5人の投手を紹介しよう。

▼村田兆治(1983年に手術/ロッテ)

 腰をいったん低く落としてから投げる“マサカリ投法”から繰り出される剛速球と、落差30cm以上ともいわれるフォークを武器に、村田は75年から81年までの7年間で最多勝1回、最優秀防御率2回、奪三振王4回に輝き、球界を代表する大エースとして君臨した。だが、82年5月、絶頂期にあった彼の右ヒジは壊れた。
  さまざまな治療法を試したが治らず、絶望のあまり怪しげな民間療法に手を出したこともあったという村田。だが、最終的にトミー・ジョン手術の生みの親でもあるフランク・ジョーブ博士を頼って渡米。83年8月に手術を受け、ほぼ2年間をリハビリに費やした後、85年に本格的なカムバックを果たした。

 当時の先発投手は中4日~5日での登板が一般的だったが、ジョーブ博士から「登板は週1回」と言われたため、この年の村田は毎週日曜日の先発が定位置となった。開幕5戦目の4月14日に1073日ぶりの先発勝利を完投で挙げると、そこから開幕11戦11勝(プロ野球記録)の快進撃を見せて“サンデー兆治”の異名が付いた。結局、このシーズンは17勝を挙げ、89年には3度目の最優秀防御率を獲得。同年は通算200勝にも到達するなど、術後も6年にわたってプレーした。

 日本でトミー・ジョン手術を受けて成功したのは村田が第1号だった。そのあまりにも鮮烈な復活ぶりは、ほとんど認知されていなかった同手術を日本で広く知らしめるキッカケとなった。なお、手術のおかげか村田の豪腕は引退後も衰えることなく、マスターズリーグなどで140キロを超える速球をたびたび披露。2009年には59歳にして141キロを計測して話題となった。▼桑田真澄(1995年に手術/元巨人ほか)

 PL学園時代に清原和博とともに“KKコンビ”として2度の全国制覇を果たし、プロでは巨人のエースとして長く活躍……などとつらつら書いたところであまり意味はない。現在巨人の投手コーチを務める桑田の実績は、多くのファンが知るところだろう。ここでは、彼のトミー・ジョン手術と、それにまつわるドラマについて焦点を当てたい。

 桑田が右ヒジ靭帯断裂の大怪我を負ったのは、95年5月24日の阪神戦でのことだ。3回に小フライをダイビングキャッチした際に右ヒジを強打。この時は6回まで続投したが、後日の精密検査で故障が判明した。この時、巨人軍のエースが頼ったのも、やはりジョーブ博士だった。

 手術は問題なく成功したが、そこから長いリハビリが始まった。95年の残りシーズンと、96年は全休を余儀なくされた桑田は投球できない期間が長く続いたなか、二軍の本拠地であるジャイアンツ球場の外野をひたすら走り込んだ。彼は繰り返し走ったために芝生が禿げ上がったその場所は、“桑田ロード”と呼ばれるようになった。

 そして97年4月6日のヤクルト戦で念願の時が訪れる。実に661日ぶりに一軍のマウンドへ戻ってきた桑田は、プレートに右ヒジをつけてひざまずき、野球の神様への感謝を捧げた。盟友・清原のホームランもあって、この日の桑田は6回2安打1失点の堂々たるピッチングで白星をつかんだ。

 この年はいきなり2ケタ勝利、翌年には最高勝率のタイトルを獲得するなど、桑田は故障の影響を感じさせることなくその後も長く活躍を続けた。この復活劇は、桑田の欠くべからざる伝説の1ページとして今も語り継がれている。
 ▼荒木大輔(1988、89年手術/元ヤクルトほか)

 斎藤佑樹以前の高校野球最大のアイドルと言えば、同じ早稲田実業の先輩でもあるこの荒木だった。80年夏の甲子園では、1年生ながらエースを務め、チームを準優勝に導く快投で“大ちゃんフィーバー”を巻き起こした。その後も4季連続で甲子園に出場し、そのたびに甲子園を沸かせたが、それとともに荒木のヒジには確実に疲労が蓄積していたに違いない。

 82年のドラフト1位で入団したヤクルトでも1年目から一軍で投げ続け、ついに崩壊の日は来た。プロ6年目の88年にヒジ痛を発症。8月にトミー・ジョン手術に踏み切ると、その後も89年までに3度もヒジにメスを入れた。一軍の舞台に戻るのは3年後、92年まで待たねばならなかった。

 この年、荒木はレギュラシーズンたった4登板しかできなかったが、それでもチームの14年ぶりのリーグ優勝に貢献。6月に1439日ぶりの一軍登板を含めて、リリーフで2度登板。先発に復帰したのは優勝争いが激化した10月だった。

 3日の中日戦、シーズン残り6試合、首位・阪神まで1.5ゲーム差という状況でマウンドに上がると、7回2安打無失点で4年ぶりの勝ち星。さらに、勝てば優勝決定となる10日の阪神戦でも先発し、ここでも5回1失点の好投でチームにペナントをもたらした。

 翌93年も先発の一角として日本一に貢献。96年には横浜(現DeNA)で引退するまで、トミー・ジョン手術後に挙げた勝ち星はわずかに11勝。村田や桑田に比べると物足りないように映るが、奇跡の復活を果たした92年の一瞬の輝きだけでも、成功例に数えてもいいはずだ。▼館山昌平(2004年、13年、14年手術/元ヤクルト)

 館山の満身創痍ぶりは、ヤクルトファンならずとも有名だろう。とにかく肩やヒジの故障が多く、プロ17年のキャリアで9度もメスを入れた。そのなかには、史上最多3度のトミー・ジョン手術も含まれている。

 1回目はプロ2年目の04年。春季キャンプ中に右ヒジの靭帯を断裂し、右手首から腱を移植した。結局この年は全休するも、翌年は4月から一軍に復帰。プロ初勝利を含む10勝を挙げてローテーションに定着すると、08年は最高勝率、09年は最多勝のタイトルを獲得し、右のエースとしての地位を築いていく。

 ここまでだけでも、トミー・ジョン手術の成功例としては十分だ。だが、ある意味で館山の“真骨頂”はここから。13年4月に再び右ヒジの靭帯を断裂し、今度は右足から腱を移植して2度目の手術に踏み切る。さらに翌年4月、別の手術の際にまたも右ヒジの靭帯に損傷が見つかり、3度目の手術が必要となった。この時は左手首から腱を移植。結局13~14年はほぼ棒に振っている。

 度重なる手術で往年の投球の面影はすでになかったが、それでも15年は11先発して6勝。カムバック賞も受賞した。その後も不屈の意志で現役を続けたものの、16年以降は1勝しかできないまま19年限りで引退した。現役時代の手術跡は実に175針にもおよび、引退の際には「あと25針で名球会入りできるんじゃないか」というジョークでファンを笑わせたが、これはむしろ館山の不屈のキャリアを表す名言と呼ぶべきだろう。
 ▼大貫晋一(2013年手術/DeNA)

 ここまではすべて、プロ入り後にトミー・ジョン手術を受けた例を紹介してきた。だが、アマチュア時代に手術を受けた後、プロ入りした選手ももちろんいる。あまり知られていないが、現在ベイスターズの主戦投手として活躍する大貫も、大学時代にヒジにメスを入れた一人だ。

 神奈川県出身の大貫だが、高校は地元を離れて静岡県の桐陽高に進学。2年の時に一度右ヒジを痛めたが、この時は大事に至らず、3年時には同校を18年ぶりの県大会ベスト8へと導いている(甲子園出場経験はない)。

 高校卒業後は日体大に進み、13年の春季リーグは2年生にして主力投手として活躍。優勝に貢献し、ベストナインにも輝いた。だが、その直後に運命は暗転。右ヒジの靭帯断裂が発覚し、トミー・ジョン手術を受けなければならなくなった。その後2年間をほぼ棒に振ったことで、大貫は当時、「プロなんて縁がないと思っていた」という。

 だが、大学卒業後に入社した新日鉄住金鹿島で活躍を続けた大貫は、18年にドラフト3位でプロ入りを勝ち取った。DeNAでは1年目からローテーション入りし、2年目の20年には早くも2ケタ勝利。今季も開幕から安定感のある投球でチームを支えている。プロでのキャリアは終わっていないが、大貫もまたトミー・ジョン手術の成功例に数えていいだろう。

文●筒居一孝(SLUGGER編集部)

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