MLBにスピード革命をもたらした個性派スイッチヒッター、モーリー・ウィルスが駆け抜けた生涯<SLUGGER>

MLBにスピード革命をもたらした個性派スイッチヒッター、モーリー・ウィルスが駆け抜けた生涯<SLUGGER>

ドジャースでの通算490盗塁は球団記録。希代のスピードスターがこの世を去った。(C)Getty Images

昨年のトミー・ラソーダ、ドン・サットンに続き、今年もトミー・デービス(首位打者2回)、マイク・ブリトー(フェルナンド・バレンズエラを発掘した国際スカウト)、専属アナウンサーのビン・スカリーと、ドジャースの歴史を彩った人物の訃報が続いている。今度はモーリー・ウィルスで、9月19日に89年の波乱万丈の人生を終えた。

 ウィルスは、ロサンゼルス移転後のドジャース黄金時代を支えたスピードスターで、1959年、63年、65年と、計3度のワールドシリーズ制覇に中心選手として貢献している。白眉は62年。長くメジャー記録だったタイ・カッブの96盗塁(1915年)を上回る104盗塁を記録し、MVPに選出された。

 MLBでは、ベーブ・ルース登場を機に1950年代までは長打偏重の時代が続き、スピードや小技が軽視された。それゆえ、ウィルスの104盗塁が与えたインパクトは大きかった。

 特筆すべきは盗塁死が13しかなかったことで、成功率は88.9%。1974年にウィルスのシーズンを塗り替える118盗塁を決めたルー・ブロックは33盗塁死で78.1%、1982年に130盗塁を記録し、ブロックを抜いたリッキー・ヘンダーソンは42盗塁死で成功率75.6%だったことを考えると、ウィルスの高い成功率が光る。
  もっとも、野球史家でセイバーメトリクスの父ビル・ジェームズは、「当時の捕手たちはスピードベースボールに慣れておらず、ウィルスが走ると諦めて送球しないケースが多かった」と著書で記している。検証データはないが、さもありなんだ。

 実際、塁上での彼の存在自体が投手へのプレッシャーだった。この年は、12連続牽制球をかいくぐり、その次の投球で盗塁を決めたこともあった。

 時にはパフォーマンスも利用した。1970年代に日本で発売されたムック本で、当時国内随一の通とされた八木一郎セ・リーグ企画部長が、「対戦相手に見えるようにスパイクの金具をヤスリで研いだ」というエピソードを紹介している。 ナ・リーグはこの年、前年のア・リーグに続いて8球団から10球団への球団拡張と154試合から162試合への試合数増を行なっているが、ウィルスは154試合目では95盗塁だった。そのため彼の104盗塁は、ブロックが118盗塁で更新するまで、カッブの154試合制での記録と併記されていた(この年、ドジャースは3試合のプレーオフを公式戦として戦い、計165試合を消化している。そのすべてに出場したウィルスは、現在も年間最多出場の記録を保持している)。

 いわゆる「*(アスタリスク)付き」は、1961年に162試合制でベーブ・ルースの年間本塁打記録を上回る61本を放ったロジャー・マリスが有名だが(154試合目終了時点では59本だった)、実はウィルスの盗塁記録も同様だった。

 キャリアイヤーの62年には、生まれ育ったワシントンDCで行われた球宴にも初選出され、見事MVPに輝いた。しかし、球場入りする際に小柄なウィルスは警備員に選手として認知されず、なかなか入れてもらえなかったと言う。試合後、トロフィーを担いでウィルスは同じゲートから出てきたのだが、「それでも小僧が運ばされているだけだろう、という目で見られたよ」と、2015年に『ワシントン・ポスト』紙に語っている。

 ウィルスは本来右打者で、脚力を買われて転向したスイッチヒッターだった。通算536本塁打で三冠王のミッキー・マントルを例に出すまでもなく、古くからプラトーニングの考え方が定着していたアメリカではむしろスラッガータイプに両打ちが多く、彼は異色だった。

 キャリアスタッツを見ると、打席の左右でほぼ差がない。ジェームズは「ウィルスの成功により、後足の右打者を適性を無視して安易にスイッチヒッターへ転向させる例が増えた」と指摘している。
  ウィルスは、14年のキャリアで通算586盗塁(歴代20位)。盗塁王には60年から65年まで6年連続で輝いている。球宴選出は7度、遊撃手としてゴールドグラブも2度受賞している。パワーに欠け、早打ちで四球は少なかったため通算OPSは.661に過ぎずクーパーズタウンには辿り着けなかったが、歴史に残る個性的なプレーヤーだった。

 しかし、指導者としては成功しなかった。80年8月から81年5月までマリナーズの指揮をとったが、26勝56敗と振るわず解任された。加えて、グラウンドキーパーに自軍に有利になるよう打者席の枠の位置を変えさせ処分を受けるなど、「迷監督」列伝に名が挙がる存在となった。

 私生活でも、コカインやアルコールに溺れた時期があった。自伝では大女優のドリス・デイとの関係を示唆しているが、デイはキッパリ否定している。息子のバンプは83~84年に阪急ブレーブスに在籍したが、やたら大リーガーのプライドを振りかざす問題児で、上田利治監督と度々衝突した。

 個人的には、2002年。ドジャー・スタジアムでの試合中に、コンコースで開催されたサイン会が忘れられない。日本で臨時コーチを務めていた頃の思い出話を持ち出すと嬉しそうにペンを走らせてくれた。お礼を言ってその場を離れると、すぐそこにトミー・ラソーダがトコトコ歩いていた。さっそく声をかけ、彼にも同じボールにサインしてもらった。ウィルスとラソーダのサインが記されたボールは大事な宝物だ。

文●豊浦彰太郎

【著者プロフィール】
北米61球場を訪れ、北京、台湾、シドニー、メキシコ、ロンドンでもメジャーを観戦。ただし、会社勤めの悲しさで球宴とポストシーズンは未経験。好きな街はデトロイト、球場はドジャー・スタジアム、選手はレジー・ジャクソン。
 

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