「それでメシ食ってるんだから、練習なんて当たり前でしょ」寛容に淡々と自分の流儀を貫いた福留孝介のメジャー生活<SLUGGER>

「それでメシ食ってるんだから、練習なんて当たり前でしょ」寛容に淡々と自分の流儀を貫いた福留孝介のメジャー生活<SLUGGER>

メジャーでは5年間で498安打。1年目にはオールスターにも出場した。(C)Getty Images

福留孝介の打撃を初めて見たのは、彼がPL学園の主砲として甲子園に出場した時のことだ。テレビで見ただけで、『こんなに思いきり、バットを振り切る?』と驚いた。

 初めて”生”で見たのは、第1回WBCの準決勝、韓国戦で代打2点本塁打を放った時だった。日本生命を経て中日ドラゴンズ入りした彼が遊撃から外野へ転向し、すでにMVPや首位打者のタイトルを獲得していたのは知っていたが、やはりあの豪快無比なスイングに驚かされたものだ。

 現役最終打席でも、その雄姿はまったく変わらなかった。

 バットを背中の後ろまで振り切り、その反動でクルリと回るように投げ捨てられたバット。YouTubeの「燃えドラch【CBCテレビ公式】で最後の打席を見た時、それらとは違うシーンを思い出した。

 2008年3月31日の月曜日、カブスの本拠地リグリー・フィールドで行われたブルワーズとの開幕戦。0対3で敗色濃厚だった9回、無死一、二塁から、メジャー1年目の福留が相手のクローザー、エリック・ガニエから起死回生の同点3点本塁打をセンターに放った。 ナショナル・リーグ最古(1914年開場)のリグリーは、現オーナーが大掛かりな改修工事をしてくれたおかげで現在は改善されたが、当時は二階席下のコンクリートが落下する事故が起きるほど老朽化していた。同点スリーランが出た直後、ホームベース裏の最上階にある取材席がグラグラと揺れた。問題ありの二階席の上で大喜びし、無邪気に飛び跳ねる観客を眺めながら、「アカンで、アカンで」と結構、真面目に心配したものだ。

「自分が納得できたスイングっていうのは、あれだけだろね」

 翌年、正式に「福留番」として取材することになった時、当の本人からそう聞かされた。1年目の、日本風に書けば「打率.257、10本塁打、58打点」という成績に納得できるはずがない。出塁率.359は高く評価されたものの、「(中地区に優勝した)チームを勝たせるためにようやったとか言われても、自分の打撃がちゃんとできてたら、もっと貢献できたからね」と、キャンプから時間を見つけては打ち込んでいた。

 彼は当時、よくこう言っていた。

「それでメシ食ってるんだから、練習なんて当たり前でしょ」と。 だから、キャンプ中に「早出の特打ち」をやっても、室内ケージに居残って、特別コーチとして招かれた佐々木恭介氏とメジャーリーガーが驚くほどの練習量をこなしても、「打ち込んでいるなんて意識はない」と言うのみだった。

 それは打撃だけではなく、日々の体調管理も同じだった。 

 真夏のフィラデルフィアやカンザスシティで、福留が外野を走り込んでいる姿を何度も見た。自主トレーニングの時にはドラゴンズの二軍練習場=旧ナゴヤ球場の外野で黙々と走り込んでいたし、阪神移籍後も、真夏にもかかわらずあの広い甲子園球場の外野フェンスを行ったり来たりしていた。そんな時、彼はいつもこう言うのだった。

「特別なことなんて、何もしてないよ」と。

「俺、結構、一人で走るの好きだし、今みたいに周りに誰もいないと、気持ちも集中できるし、いろいろ考えていることが整理できる」 コツコツと積み上げる、とはよく言うが、そうすることが好きな人だった。ドラゴンズの選手たちがキャンプに旅立った後、彼は一人で名古屋に残って、孤独な練習を続けた。キャッチボール代わりに、カゴに満載されたボールを一人でネットに向かって投げ続けたり、打撃投手が不在なので、いわゆる「置きティー」で汗が滴り落ちるまで打ち続けたり。

 だからこそ、の日米通算2450安打であり、数々のタイトル獲得なのだろうが、実はその「コツコツ」のお陰で、カブスでの3年間でも、彼の打撃成績は着実に上昇カーブを描いていた。あまりよく知られていないことだが、打率は1年目の.257から3年目は.263へ。長打率は1年目の.379から3年目は.439へと確固たる「足跡」を残している。OPS(出塁率+長打率)はリーグ平均を大きく上回る.809を記録している。

「もしも、あのままカブスに残っていれば……」などと言うつもりはないし、トレード先のインディアンス(現ガーディアンズ)や、ホワイトソックスで出場機会を限定されたため、打撃の調子を崩してしまったなどと主張するつもりもない。 当時、とても近くで取材した者として言えるのは、メジャーリーグでは、「正しい時に、正しい場所にいること」が大事なのだということだ(その事実は日本人選手だけに当てはまることではないので、それ以上は言及するつもりもないけれど)。

 他の多くのベテラン選手がそうであるように、彼にもまた、将来的に指導者になると期待されている、と旧知の記者から聞いた。そうなるための「才能」と言えるかどうかは分からないが、彼は現役時代から試合の全体像を眺めている人だった。

 現在のような極端な守備シフトが導入される前、彼は右翼を守る自分の前にいる二塁手や遊撃手の動きについて、「なんであんなところにいるのかな、とは思うよね」と「やんわり」漏らしたことがある。一塁走者がいて、バッテリーはダブルプレーが欲しかったのに、相手打者の打球方向の傾向をほとんど考えず、基本通りに二遊間を締めるだけ。案の定、一、二塁間に飛んできたゴロをグラブに当てて捕球できなかった。 視野が広いこととの因果関係は分からないが、思慮深い人物でもあった。米国から日本に来た知人が時差ボケを隠しながら某アミューズメントパークに行くと、本人よりも早く体調異変に気がついて、ホテルに送り届ける。自らが主催するゴルフコンペに来たゲストには、どんなスコアであれ、必ず何らかの景品を持って帰ってもらう。そういうポジションにいる人にとっては珍しいことではないのかもしれないが、それらと似たような逸話を話してくれる彼の知人がとても多いことに、驚かされたものだ。

 そう言えば、ヤンキース傘下の3Aスクラントンでシーズンを終えた12年の秋、当時滞在していた田舎町で、ゴルフをすることになった。ところが馴染みのない田舎町では、パブリックコースを見つけるのが難しく、ようやく予約できたコースのレンタルクラブが、「超」が付くほど古かった。

「やべぇ」とは思ったものの、あとの祭りである。早朝から出かけたゴルフ場で申し訳ない気持ちになっていると、彼は「こういうレトロなクラブでやるのも面白い」と言い、颯爽とコースへ出かけて行った。こちらの失態に気を遣われたのか、「怒っても仕方がない」と諦めていたのか。いずれにせよ、彼は自分の力量には合わないグニャグニャのシャフトのクラブで快打を連発し、いつもと変わらぬ70台のスコアで回って、こう言った。
 「こういう経験もなかなかできない」。

 米国にいた5年間、彼はいつも寛容に物事を受け入れていた。そうしなければ、異国のプロ野球でプレーするのが難しかったのは間違いないが、失意や落胆するのではなく、どこか愉しんでいるようなところがあった。

 だから、私にはどうしても彼が、「メジャーリーグで苦しんだ日本人選手」だとは思えない。むしろ、彼は彼なりのやり方で、「アメリカでのプレーをやりきった」のではないかと思っている。
  Kosuke Fukudome=福留孝介。

 シカゴ・カブスの背番号1。

 喜怒哀楽の詰まった日々が、今ではとても、懐かしい――。  

文●ナガオ勝司

【著者プロフィール】
シカゴ郊外在住のフリーランスライター。'97年に渡米し、アイオワ州のマイナーリーグ球団で取材活動を始め、ロードアイランド州に転居した'01年からはメジャーリーグが主な取材現場になるも、リトルリーグや女子サッカー、F1GPやフェンシングなど多岐に渡る。'08年より全米野球記者協会会員となり、現在は米野球殿堂の投票資格を有する。日米で職歴多数。私見ツイッター@KATNGO

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