チームを支える“なんでも屋”。雑務の傍ら打撃投手で200球を投げる日も。青学大の敏腕学生マネージャーの素顔【大学野球の裏側コラム】

チームを支える“なんでも屋”。雑務の傍ら打撃投手で200球を投げる日も。青学大の敏腕学生マネージャーの素顔【大学野球の裏側コラム】

「自分のやれることをやるだけ」とチームのために奔走する佃(左)。関係者たちは彼を「東都で一番仕事が出来るマネージャー」と評する。写真:矢崎良一

ドラフト候補などスター選手の動向ばかりに目が行きがちな大学野球だが、取材をしていると、それぞれのチームで、マネージャーや学生コーチ、アナリストといった「裏方」の担う役割が非常に大きいことに気付く。

「良いチーム」には、「良い裏方」が必ずいる。彼らの人となりは? どんなきっかけでそのポジションに就き、どんなふうにチームに貢献しているのか? “フィールド外の戦力”に陽を当ててみた。

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 東都リーグの強豪・青山学院大のマネージャー佃駿太(4年生)は、自チームの公式戦終了後も、明治神宮大会の学生スタッフとして、神宮球場で大会運営の手伝いをしていた。東都代表(優勝校)の国学院大は決勝戦に勝ち進んだが、明治大に敗れ準優勝。あらためて試合を観ながら、「(青学大との)戦力の差はまったくなかった」と悔しさが込み上げたという。

 秋のリーグ戦の終盤、大学野球生活のラストが近づく中で、「自分のやれることをやるだけなので」と口にしていた。よく志願してバッピ(打撃投手)を務めた。連投で200球以上投げる日もある。良いボールを投げるために、時間が空けばランニングや筋トレで身体を作った。

 接客や事務仕事が中心になるマネージャーとしては珍しいが、「もともと部員の数が少ないし、平日は授業もあるので人手が足りない。代々、うちのマネージャーはやってきたことです」と佃は当然のように言う。取材の日もギリギリまでグラウンドに立ち、ひとしきり投げ終わった後にインタビューが始まった。

 佃は東都の連盟関係者や取材で関わった記者たちから、「東都で一番仕事が出来るマネージャー」と評判だった。まず大学や連盟との連絡やメディアからの取材依頼などへのレスポンスが早く、なおかつ丁寧。
 「都合の悪い話ほど早く伝えるように」という安藤寧則監督からの教えを忠実に守ってきたと言う佃。「ほうれんそう」(報告・連絡・相談)というビジネス用語があるが、とかく監督の権限が強い大学野球では、対外的な窓口はマネージャーであっても、重要な判断は監督に委ねるケースが多い。なかには監督の顔色を覗うあまり無駄なタイムラグを作ってしまうマネージャーも少なくない。そういう時のアクションで、マネージャー個人の処理能力だけでなく、チーム内の空気、風通しの良し悪しまでが外に伝わってしまう立場なのだ。

 上の二学年にマネージャーがいなかったため、佃は2年生でチーフマネージャー(主務)になった。人前で話すのが苦手で、初めはちょっとした連絡だけでも緊張していた。連盟の主務会でも他校の上級生の主務たちに囲まれて最初は何も言えなかった。

 たまたま国士舘大も同じ状況で同学年のチーフマネージャーが就任し、上級生には聞きにくいことも二人で相談しながら仕事を処理してきた。実直な性格だから、上級生にも同級生にも信頼された。4年生になると東都リーグの学生委員会で副委員長を任され、1部から4部まで東都22校の主務やマネージャーといった裏方を束ねる立場になった。

 そして、試合では選手と共にベンチに入りしスコアブックを記録する。スコアを付けながら、ときに立ち上がって声を出しグラウンドの選手を鼓舞する。佃は「選手と同じ熱さで試合に臨んでいるつもりですが、そこだけに集中するわけにもいかないので」と苦笑する。試合後の取材対応、日頃使わない球場の時には着替え場所やバスの配置の確認……コロナ禍もあって気を回さなくてはいけないことだらけだった。 秋のリーグ戦、青学大は優勝に「あと1勝」と王手を懸けながら、最終カードの駒大戦で痛恨の逆転サヨナラ負け。開幕戦に連勝で勝ち点を取っていた国学大に土壇場で逆転優勝を許した。試合後、「やりきった」とサバサバしていた部員もいるなかで、佃は「やっぱりウチは弱かったということ。目を背けてはいけないと思います」と厳しく指摘した。

 二部リーグにいた1年生の秋、今回と同じように勝てば優勝の最終戦に敗れ、直接対決ですでに勝ち点を取っていた拓大に優勝をさらわれていた。「その時からチームが変わりきれなかった。自分たちの取り組みでは足りなかったということです。僕自身も、ベンチの雰囲気が落ちている時に、自分の声で盛り上げるような力が足りませんでした」と言う。

 こうした野球への厳しい向き合い方は、安藤監督から植えつけられたものだ。佃が青山学院高等部に入学した時、安藤は高等部の野球部で監督を務めていた。そして佃たちの代の3年生の夏の大会を最後に退任し、大学に入学した翌春から大学の監督に就任している。合計7年間の師弟関係。マネージャーとしての入部が決まったのも安藤の口添えだった。

 高等部時代、その指導はまさにスパルタ方式。練習での小さなミスも決して見逃すことなく、グラウンドには容赦なく怒声が響いた。それでも佃は当時をこう振り返る。

「ワァーって怒られたら、その時はビビったり、ヘコんだりしますけど、それよりも監督の求めている野球について行くことが大変で。ただただ毎日必死の3年間でした」
  中学までは投手だったが、高校入学後、「お前、内野はできるか?」と聞かれ、そのまま二遊間の守備に就いた。練習はひたすら実戦形式で、一つ一つのプレーに状況判断を求められた。

 強豪大学の附属校とはいえ高等部にはスポーツ推薦などはなく、受験の難易度も高いため、中学時代に実績のある選手はなかなか入学してこない。なかには初心者と変わらないような選手もいた。それでも妥協せず、ひたすら選手を鍛え上げ強豪校に伍するチームを作るというのが当時の安藤のイズムだった。その厳しさは野球だけでなく、日常の生活態度や、グラウンドを訪れる来客への対応に至るまで徹底的に叩き込まれた。

 あまりの厳しさについて行けず退部する部員もいた。同じグラウンドで練習する中等部の野球部員は、入部すらしてこなくなった。佃の学年はわずか5人。1年生の夏の大会を終え3年生が引退すると、新チームの部員数は2年生と併せて9人になった。ケガ人が出たら試合が出来なくなるが、練習が緩むことはなかった。

 9人で秋の大会を乗り切り、翌春、新入部員が入ってきた。一人でも部員数を確保したい。それでも佃は後輩たちに同じ厳しさを求めた。「それで9人揃わなくなっても、自分たちが目指す野球が下の学年に伝わらないことのほうがイヤだったんで」と振り返る。 大学進学に際し、野球の継続について悩んだ。

 青学大に入ってくる甲子園常連校の主力やドラフト候補に名前が挙がるような選手たちとは、努力だけでは埋められない力の差があることはわかっていた。チームメイトの他の4人が準硬式に転向するなか、「まだ硬式に関わりたい」という気持ちが強かった。そこで思い至ったのがマネージャーだった。これまでも高等部のOBが何人かマネージャーを務めている。佃の姉も青学大の女子マネージャーだった。「また違った目で、レベルの高い野球を経験するのもいいな」と考えた。

 大学に入って気付いたことが二つある。一つは、高校時代に安藤監督から教わってきた野球が、全国の強豪校から来た選手たちにも劣らないレベルの高さだったこと。彼らのように打ったり投げたりはできなくても、彼らがそれぞれの局面ですべきことはすぐにわかった。
 もう一つは、安藤監督の指導スタイルの変化。高等部時代とは180度変わって、選手の自主性を尊重し、言葉を掛ける時も口調は穏やか。それは昭和から、平成を通り越して一気に令和の時代になったような驚きがあった。

「僕らのように何もできない選手なら、厳しく訓練することが技術を身に付ける近道です。でもウチに入って来るような選手は、打ったり投げたりの技術はあるし、高校までに教わってきた形もある。そういう選手に頭ごなしに言っても反発するだけで、かえって遠回りになる。監督はいろんな引き出しを持っているんだな、と。こういう人の下で野球をやれて、本当に勉強になりました」
 佃はあらためて自分の選択が間違っていなかったことを実感している。

 じつは佃の父の守さんも、大学時代に神宮球場でプレーした選手だった。
  1990年の東都リーグは亜細亜大が春秋のリーグ戦を連覇し、春の全日本大学選手権も制し日本一に輝いている。歴代でも屈指の強力チームの中心は強力な投手陣。エースはその年のドラフトで史上最多8球団から1位の重複指名を受けた左腕・小池秀郎(元・近鉄)。高津臣吾(現・ヤクルト監督)が2番手投手で、この悔しさをバネにプロ入り後に飛躍したという逸話は今もよくメディアで取り上げられるが、厳密に言うと高津は4番手だった。下級生の頃は、小池と川尻哲郎(元・阪神)が先発し、リリーフに佃(守)という布陣。高津はそれに続く存在だった。

 守さんは卒業後、社会人野球のNTT信越に進み、都市対抗で完封勝利を挙げドラフト候補と呼ばれた時期もあったが、アマチュアのまま現役を終えた。先発でもリリーフでも行ける、チームの役に立つ投手だった。今ではNTTの企業チームからクラブ化した信越野球クラブで部長を務めている。

 佃はそんな父の球歴を「そういうことを家族に話さない人なので」と言い、あまり知らなかった。キャッチボールの相手をしてもらったことはあるが、細かく指導を受けた記憶はない。「中学生くらいの頃、試合を見に来た後に何か注意された時、僕が“はいはい”みたいな感じで聞き流していたら、それからアドバイスもしてくれなくなりました」と言う。

 いやいや、それは勝手な思い込みだろう。高等部時代、忙しい仕事の合間に母の絵里さんと一緒にグラウンドに足を運び、ネット裏から息子のプレーを見守っていた。そして、時折我が子に向かって浴びせられる監督の怒声も、それが当たり前の環境にいた守さんにしてみれば、むしろ懐かしいくらいに思っていたことだろう。

 厳しさのなかで鍛えられ、成長し、エースや4番打者のような主役ではないが、チームに欠くことの出来ない大事な存在になった。場所と形は違うが、父子は根っこのところで同じような野球人生を送っているのかもしれない。

 卒業後は一般企業に就職する佃。父のように仕事で野球に関わるつもりはない。ただ、もしチャンスがあれば硬式のクラブチームに入って“本気”の野球をまたやってみたいと思っている。

取材・文●矢崎良一

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