<2019ベストヒット!>戦力外から2億円プレーヤーへ――リストラをバネに這い上がった男たち

<2019ベストヒット!>戦力外から2億円プレーヤーへ――リストラをバネに這い上がった男たち

戦力外から這い上がり、2億円プレーヤーまで登り詰めた山本和範。94年にはあのイチローと首位打者を争った。写真:朝日新聞社

2019年の名珍場面を『THE DIGEST』のヒット記事で振り返るこの企画。今回チョイスしたのは、戦力外から這い上がった男たちの物語だ。山本和範や畠山準、遠山奨志らリストラをバネに第一線に返り咲いた名手たちの鮮烈な活躍は、いまもなお輝き続けている。
 記事初掲載:2019年11月7日

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 10月24日で戦力外通告の通達期間が終了し、今年も12球団合計で102人が非情な通知を受けた。

 だが、たとえ戦力外通告を受けたからといって、あきらめるにはまだ早い。戦力外から這い上がり、再び第一線で活躍した選手は過去に何人もいる。今回はそのうち、特に実績を残した8人を紹介しよう。

▼山本和範(元南海・ダイエーほか/外野手)
 1976年のドラフト5位で近鉄バファローズに指名されたが、在籍6年でわずか6安打。82年オフに自由契約となるも、現役続行をあきらめきれない山本は、バッティングセンターに住み込みで働きながらオファーを待つ。その虚仮の一念が通じたのか、83年に南海ホークスに入団。

 雪辱に燃えた山本は、新天地で外野のレギュラーをつかみ、85年に全試合出場、86年にはオールスター出場を果たし、ゴールデン・グラブ賞も獲得する。94年には、あのイチローと首位打者を争った。惜しくも敗れはしたもののリーグ2位の好成績で、年俸も2億円に到達した。

 しかしこの高年俸がネックとなって、46試合の出場に終わった翌年オフにまたも自由契約。すでに39歳と高齢だった山本は古巣・近鉄に拾われると、2年連続2ケタ本塁打を放って再度復活を果たす。99年限りで引退したが、現役最終打席でも意地のホームラン。諦めない姿勢を最後まで貫いた選手だった。
 ▼畠山準(元大洋・横浜ほか/外野手)
 82年夏の甲子園大会で優勝した池田高のエースで4番だった畠山は、同年のドラフト1位で南海ホークスへ入団したが、投手としては伸び悩んだ。1年目は0勝3敗、防御率6.07。2年目は規定投球回に到達するも5勝12敗と大きく負け越し。結局5年目までに6勝しかできず、故障もあって88年から打者に転向した。だが打率2割を超えるのもやっとの有様で、90年限りで戦力外に。

 しかし翌年、大洋ホエールズの入団テストを受けて合格したのを機に開花。3年目の93年にはライトのレギュラーに定着し、この年から3年連続でオールスターにも出場した。96年からは鈴木尚典や佐伯貴弘らの台頭もあって出場機会が減少し、99年オフに再び戦力外通告を受け引退。現在はDeNAの球団職員を務めている。
 ▼遠山奨志(元阪神ほか/投手)
 松井秀喜キラーとして有名な遠山も、実は戦力外から復活した選手だ。86年のドラフト1位で阪神タイガースに入団。1年目からローテーション入りして8勝を挙げたが、2年目以降は故障に泣き、90年オフにトレードでロッテへ放出される。

 ロッテでも4年で1勝もできず、95年からは打者に転向。イースタン・リーグ最多安打を放つなど打撃センスはあったが一軍定着はできないまま、97年に戦力外通告を受ける。この時すでに30歳だったが、「もう一度阪神でやりたい」と一念発起、古巣の入団テストに挑戦する。打者として受験するつもりだったが、吉田義男監督に投球を見せるよう促され、投手として合格通知をもらった。

 さらに99年、野村克也が阪神の監督に就任したことが、遠山の復活を後押しする。野村に見出された遠山は、左打者キラーとして覚醒。63試合に登板して防御率2.09の成績を残す。特に巨人の松井秀喜は13打数ノーヒットに抑え込み、「顔も見たくない」とすら言わしめた。

 野村政権下では中継ぎとして重用され、3年連続で50試合以上に登板したが、監督が星野仙一に変わった2002年は23試合の登板に終わり、体力の限界を感じて引退。しかし、松井キラーとしての名声は今なお残っている。
 ▼高木晃次(元ロッテほか/投手)
 戦力外になるたびに復活した“不死鳥”のような投手である。1986年、阪急ブレーブスにドラフト1位で入団するも一軍には定着できず、93年オフにトレードでダイエーに移籍。ここでも3年で5試合しか登板がなく、97年にあえなく戦力外通告を受ける。

 しかしテスト入団したヤクルトで、野村克也監督の指示によりサイドスローに転向して覚醒。入団2年目の99年はローテに入って9勝、5月にはプロ入り13年目にして初の完封勝利を挙げ、シーズントータルでも3完封を記録している。

 翌年以降は低迷し、2001年にふたたび戦力外通告を受けたが、02年に今度はロッテにテスト入団してまたも復活。ベテランならではの器用さを発揮し、ロングリリーフにワンポイントにと便利屋リリーフとして長く活躍。07年にはプロ21年目で初のFA権を取得したことも話題となった。08年には40歳にしてキャリアハイの43試合に登板した。

 そして16試合登板に終わった09年、生涯3度目の戦力外通告を受ける。過去2度のように現役続行を目指してトライアウトを受験するが、今度は獲得する球団が現れず引退。23年もの長きにわたったプロ生活を今度こそ終えた。
 ▼宮地克彦(元ソフトバンクほか/外野手)
 戦力外からの劇的な復活から「リストラの星」と呼ばれた宮地は、1990年のドラフト4位で西武に入団した時はまだ投手だった。オープン戦で勝利投手となり、ルーキーで開幕一軍に抜擢された「期待の星」だったが、調子を崩して一度も登板がないまま二軍行き。結局投手として一度も一軍で登板することなく、93年に打者へ転向した。

 02年には4番カブレラ、5番・和田一浩の前を打つ「日替わり3番打者」の一員として100試合に出場したが、翌年はヒザの故障でわずか25試合しか出られず、オフに戦力外通告を受けてしまう。

 現役続行を希望する宮地はいくつかの球団の入団テストを受けるが、すべて不合格。トライアウトも受験したが手を挙げる球団はなかった。台湾球界入りも検討していたところ、外野のレギュラーだった村松有人がFAで退団するダイエーから声がかかり、テスト入団が決まった。

 宮地は新天地でライトのレギュラーに定着。05年にはプロ入り16年目にしてオールスターに初出場。規定打席に到達して打率.311の好成績で、ベストナインにも選ばれた。翌年は守備中の故障で48試合の出場に終わり、35歳という年齢もあってまたも戦力外に。トライアウトを経ても獲得球団は現れず、07年はBCリーグの富山サンダーバーズでプレーしたが、どこからもオファーはなく引退。引退後はソフトバンク・西武でコーチを務め、現在はエイジェックの女子硬式野球部のGMを務める。
 ▼田上秀則(元ソフトバンクほか/捕手)
 01年のドラフト3位で中日に入団した田上は、いきなり不運に見舞われた。FAで同じ捕手の谷繁元信が移籍してきたのである。当時球界随一の名捕手だった谷繁が相手ではろくに出場機会も与えられず、4年でわずか13試合の出場に終わり、05年オフに早くも戦力外通告。

 だが、田上をどん底に叩き落したのがFAなら、復活のきっかけになったのもFAだった。マリナーズにFA移籍した城島健司に代わる捕手を探していたソフトバンクから声がかかり入団。持ち前の強打を武器に着実に出場機会を増やし、09年には完全に正捕手に定着して26本塁打、80打点でベストナインに輝いた。

 翌年以降の成績は徐々に下降線をたどり、15試合の出場に終わった13年限りで引退。一軍では有終の美を飾ることができなかったが、ファーム日本選手権では勝ち越し本塁打を放ってMVPに輝いた。
 ▼福山博之(元楽天ほか/投手)
 2014年から17年にかけ、4年連続で65試合以上に登板した福山も、実は戦力外から復活した選手だ。10年ドラフト6位で横浜ベイスターズから指名されるも、2年目に2試合で防御率18.00に終わると、球団からは投手失格の烙印を押され、野手転向を勧められる。それでもあくまで投手にこだわり、戦力外通告を受けて退団した。

 しかし、福山の判断は正しかった。楽天に拾われると球界屈指の中継ぎに成長し、先に挙げたように4年連続で65試合以上に登板。特に17年は59.2回を防御率1.06に抑える活躍で1億円プレーヤーまで登り詰めた。
  しかし、18年は21試合登板で防御率6.75の大不振。今季もわずか7試合の登板で防御率5.19に終わり、10月1日にまたも戦力外通告を受けた。球団からは育成契約を打診されているが、果たして二度目の復活はなるだろうか。

文●筒居一孝(スラッガー編集部)

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