″世界に轟いた一撃″――トムソンの歴史的一打はサイン盗みの産物だった?【ダークサイドMLB】

″世界に轟いた一撃″――トムソンの歴史的一打はサイン盗みの産物だった?【ダークサイドMLB】

“世界に轟いた一撃”を放ったトムソンは、クラブハウスでオーナーのストーンハム(左)、ドローチャー監督(右)と喜びを分かち合った。(C)Getty Images

光が当たる場所には必ず影がある。MLBでも、これまで数多くのスキャンダルや事件が世間を騒がせてきた。本欄で紹介される人物のほとんどは、子供のお手本になるような存在ではない。しかし、彼らもまたMLBの歴史の一部であることは、誰にも否定できないのだ。

 昨年11月、スポーツウェブサイト『ジ・アスレティック』がヒューストン・アストロズのサイン盗みをスクープし、球界全体を巻き込む一大スキャンダルに発展した。だがこれ以前から、MLBではサイン盗みがしばしば行われてきた。

 1951年に3回戦制で行われたナ・リーグ優勝決定シリーズにおいて、ニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)のボビー・トムソンが放ったサヨナラ本塁打は、史上有数の大逆転優勝を決めた名シーンとして今も記憶されている。だが、半世紀後、その年のジャイアンツが組織ぐるみでサイン盗みを働いていたことが発覚したのである。
  51年のジャイアンツは、開幕から14試合で12敗とつまずいた。期待の大型新人ウィリー・メイズも、自らマイナー落ちを申し出るほどの不振に苦しんだ。5月以降は調子を取り戻して勝ち始めたが、ライバルのブルックリン・ドジャース(現ロサンゼルス・ドジャース)はそれ以上のペースで勝ち進んで首位を快走。8月11日の段階でゲーム差は13にまで拡大し、優勝の可能性はほとんどないように思われた。

 しかし、ジャイアンツは翌12日から怒涛の16連勝を演じて、ゲーム差は一気に5まで縮まる。9月14日からの12試合でも11勝して、とうとうドジャースと同率首位でレギュラーシーズンを終えた。10月1日の優勝決定シリーズ初戦は、トムソンがドジャースの先発ラルフ・ブランカから逆転2ランを放って勝利。だが翌日はドジャースが10対0と大勝した。

 雌雄を決する3日の試合は、初回にジャッキー・ロビンソンのタイムリーでドジャースが先制。6回までドン・ニューカムに2安打と抑えられていたジャイアンツは、7回にトムソンの犠牲フライで追いついた。だがその直後の8回表、好投していたサル・マグリーが力尽き3点を失う。1対4の劣勢で迎えた9回裏、ジャイアンツは1死一、三塁のチャンスでホワイティ・ロックマンがタイムリー二塁打。1点を返し、なお二、三塁でトムソンが打席に入った。

 ニューカムは限界と判断したドジャースのチャーリー・ドレッセン監督は、ブルペンに連絡を取る。投球練習をしていたのはカール・アースキンとブランカ。アースキンのコントロールが定まっていないとの報告を受け、ドレッセンは初戦でトムソンに決勝弾を打たれていたにもかかわらず、ブランカをマウンドへ送った。初球を見送ったトムソンは、2球目の速球を強振。打球は低いライナーとなってレフトスタンドへ飛び込んだ。
 「ジャイアンツがペナントを勝ち取りました!」実況アナウンサーのラス・ホッジズは繰り返し叫んだ。このラジオ音声がもとで、トムソンの一打は世界に轟いた一撃(Shot Heard 'round The World)?、あるいは舞台となった本拠地球場ポロ・グラウンズの所在地からクーガンズ・ブラフの奇跡?などと呼ばれ、後世に語り継がれるようになった。

 一塁が空いていた状況を考えれば、トムソンを歩かせて次のメイズで勝負する手はあったかもしれない。メイズはブランカに対して19打数2安打と相性が良くなかったからだ。だが、逆転の走者をむざむざ出してしまうのも好手とは言い難かった。ドレッセンは「オフシーズンの間、あの場面を何度も振り返ったが、下した決断は正しかったと思っている」と語っている。

 トムソンの一発は、99年に『スポーティング・ニューズ』誌が選定した「野球史上最も偉大な25の瞬間」では第1位。『スポーツ・イラストレイテッド』誌による「スポーツ史上における100の偉大な瞬間」でも全種目を通じて15位にランクされている。それだけに、2001年になって『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙が「51年のジャイアンツの逆転優勝はサイン盗みの産物だった」とすっぱ抜いた時の衝撃は大きかった。
  ジャイアンツのレオ・ドローチャー監督がサイン盗みに踏み切ったのは、控え内野手のハンク・シェンツから「カブスにいた頃、リグリー・フィールドのスコアボードに隠れてサインを盗み見ていた」と聞いたのがきっかけだったという。ドローチャーは人並み外れて闘争心旺盛な人物で、「お人好しでは野球に勝てない」の名文句を吐いたことでも知られており、サイン盗みに手を染めることなどまったく躊躇はなかっただろう。

 具体的な手口は以下のようなものだった。当時ポロ・グラウンズのセンター後方にあった監督室から、コーチのハーマン・フランクス(最初は経験者?のシェンツが担当した)が双眼鏡で相手捕手のサインを覗き、それを右翼後方にあったジャイアンツのブルペンへブザーを鳴らして教える。ブザーが1回なら速球、2回だとカーブ。それを捕手のサル・イーバースが打者へ伝える。右手にボールを握っていれば速球、空中に投げ上げていれば変化球の合図だった。

 最初に実行したのは7月20日のレッズ戦。それまでの対戦で、18イニングで4点しか取れていなかった難敵ユール・ブラックウェルに対し、初回に3点を奪ったことでその効果を確信した。この日以降、ポロ・グラウンズでの28試合でジャイアンツは23勝5敗。勝率8割を超えるペースで勝ち続けた。

 伝達役のイーバースは「あのホームランを打った時も、トムソンに球種を知らせていた」と言っていた。これに対しトムソンは「私は自分のスウィングを誇りに思っている。誰の助けも借りずに打ったものだからだ」と言い張り、その主張を死ぬまで崩さなかった。ただ一方では「この一件が明るみに出て、長い間感じていたプレッシャーが取り払われた」とも語っていて、後ろめたい思いがあったのを認めている。
  ブランカは「こぼしたミルクを嘆くような真似はしたくない。あのホームランを打たれていなければ、誰も私を覚えていなかっただろうし」と良き敗者?として振る舞っていたが、スパイの件が表面化した後は「実はずっと前からその話は知っていた。けれども、何を言っても泣き言だと思われるから言わなかったんだ」と明かした。ブランカはタイガース移籍後、ジャイアンツに友人のいる選手から聞いたとのことで、のちにイーバースからも確証を得たという。

 このように球界内部では、サイン盗みの事実は密かに広まっていたようだが、『ウォール・ストリート・ジャーナル』のスクープ以前は、一般には噂レベルでしか語られていなかった。

 史上有数の名場面がイカサマの産物と知ったファンの嘆きや憤りは大きかった。アメリカ野球についての著書がある日本の某作家も「これでは野球の力量を互いに競い合うゲームというより、情報盗みの力を競い合うゲームということになるのではないか」と憤慨した。しかし、ジャイアンツが優勝したのはサインを盗んでいたおかげ――というほど単純なものでもない。スパイ行為の効果がどれほどあったのか、実際にはかなり疑問だからだ。
  まず、このサイン盗みが効果を発揮するためには、フランクスが対戦相手のサインをすべて正確に把握している必要がある。その第一段階をクリアしても、捕手がサインを出してから投手が投げ始める前に、打者に伝わっていなければ無意味だ。実際の所要時間は7秒だったそうだが、これでは間に合わない場合も多かったのではないか。モンテ・アービンをはじめ、集中力が乱されるとして球種を教えられるのを拒む者もいたのは、そういったことも理由だったろう。

 また、サインを盗み始めて以降ホームでの勝率が8割を超えていたのは前述のとおりだが、その間はロードでも勝率.684。ホームほどではなくても相当高く、好成績はスパイ行為の恩恵ばかりではなかったことになる。しかもジャイアンツのホームでの得点は、7月20日以前は1試合平均5.5点だったのが、その後は4.7点とむしろ下がっている。さらに、同期間のロードでの4.8点より低い。アウェーでの試合を含めても、平均得点はリーグ2位から4位へ下がっている。

 サイン盗みは、実際は得点増に関しては大した影響はなかった。トムソンも、7月20日以降の打率は敵地での方が高かった。大逆転の最大の要因は、この66試合で平均3.2失点に抑えていた投手陣の踏ん張りだったのだ。
  51年当時ドジャースのGMだったバジー・バベジは「もしジャイアンツがサインを盗んで優勝できたのなら、どうしてそれを続けなかったんだ?」と疑問を呈している。優勝決定戦でも初戦にジャイアンツは敵地で勝ち、有利なはずのホームで第2戦は大敗した。この年のワールドシリーズでも、ポロ・グラウンズでヤンキースに2敗し、世界一を逃している。「サインを盗んだから勝てた」と決めつけるのは「ステロイドを使えばホームランが打てる」というのと同じくらい安易な結論だ。トムソンの一撃にしても、ブランカが「ホームラン競争でも、どんな球が来るか知っていてポップフライになったりする」と言うように、たとえ球種を知っていても常にホームランが打てるわけではない。

 とはいえ、そうした事実によってスパイ行為が正当化されるわけでは決してない。著しく公平さに欠ける、フェアプレー精神にもとるという点では、ドーピングと何ら変わりはないからだ。また、1試合だけでも球種を知っていたおかげで勝てたなら、その1勝でドジャースとの優勝決定戦に持ち込めたのだから、大きな価値があったことにはなる。

 相手チームのサインを盗もうとする試みは、サインが考案されたのと同じくらい古い歴史を持つ。早くも19世紀には、フィリーズが三塁コーチズボックスの下にブザーを仕込み、控え捕手が双眼鏡でサインを覗いて、三塁コーチ経由で打者に伝える……という、ジャイアンツとほぼ同じ仕組みを考え出していた。フランクスも「我々がしていたかどうかはともかく、どのチームだって同じようなことはやっていた」と言っていて、おそらく事実だろう。
  投手の癖を研究して球種を見抜くこと自体はまったく問題なく、むしろ高等な技術として評価されている。だが球界の暗黙のルール?では、二塁走者が捕手のサインを打者に教えることもアウトと見なされる。グラウンドまたはベンチ以外の場所からサインを盗むとなると問題外であり、機械的な方法でサインを盗むのも、61年にルールとして正式に禁止された。

 だが、アストロズの例を見ればわかるように、今もなおスパイ行為は横行している。93年に中日ドラゴンズでもプレーし、メジャー通算265本塁打を放ったマット・ステアーズはかつてこう言った。「(サイン盗みは)一切ないなんて言うヤツは、幻想の世界に生きているんだろう」

 アメリカ人が特別フェアプレー精神に欠けている、というわけでもなさそうだ。日本でも、かつてはサインを盗まれないようにバッテリーがサイン交換時に乱数表を用いていたし、90年代には福岡ダイエー(現ソフトバンク)のスパイ疑惑が浮上した。洋の東西を問わず、勝利のためならどんな手段も尽くすという姿勢に変わりはなく、それが時に行きすぎた行為につながる――ということなのだろう。

 野球では1球ごとにバッテリーがサインを交換し、その間には打者にもベンチから作戦のサインが送られる。他のどのスポーツよりもサインが飛び交う機会が多く、その分サイン盗みを働く動機も強くなる。何度も言うようだが、こうした不正行為は褒められたものではない。だが野球というスポーツの複雑さ、魅力の大きさの副産物という面があるのも確かなのだ。

【ボビー・トムソン】
ロバート・ブラウン・トムソン。1923年10月25日生まれ。42年にジャイアンツと契約し、46年9月9日メジャーデビュー。翌年からレギュラーを獲得し、いきなり29本塁打。52年にはリーグ最多の14三塁打を放った。守備は外野と三塁を主に守った。ブレーブス、カブス、レッドソックスなどでもプレーし、60年を最後に引退。メジャー15年で通算1779試合に出場し、264本塁打。オールスター選出3回。引退後は製紙会社の重役を務めた。2010年8月16日に86歳で死去。

文●出野哲也

※『スラッガー』2017年11月号より加筆・修正の上、転載
 

関連記事(外部サイト)