「父の死」だけが理由ではなかった…あれから27年、“バスケの神様”マイケル・ジョーダンのMLB挑戦を振り返る【前編】

「父の死」だけが理由ではなかった…あれから27年、“バスケの神様”マイケル・ジョーダンのMLB挑戦を振り返る【前編】

NBA史上最大のスーパースターの突然の野球挑戦にファンは度肝を抜かれた。(C)Getty Images

NFLやNBAと比べると、MLBでは新人ドラフトで指名された選手が即戦力になるケースが非常に少ない。理由はいくつか考えられるが、野球では身体能力よりもスキル/テクニックの方が必要度が高いこともある。アダム・ジョーンズ(オリックス)は「他のスポーツをしている選手にいつも言うんだ。『俺たちには君の競技ができるだろうけど、君らが上手に野球をプレーできるとは思えない』ってね」と言い、ESPNのコラムニストであるティム・カークジアンも「大抵のメジャーリーガーはダンクを決められるが、NBA選手に球速95マイルのボールは打てない」と断じている。

 史上最高のバスケットボール選手、マイケル・ジョーダンのMLBへの挑戦は、そうした見方を証明するものかもしれない。シカゴ・ブルズをNBA3連覇に導いた4か月後の1993年10月、ジョーダンは突如として現役引退を発表した。7年連続得点王、MVPを3度受賞し、前年のバルセロナ五輪ドリームチームで名声を世界中にとどろかせたスーパースターが絶頂期に引退したのだから、その衝撃の大きさは計り知れなかった。
  4ヵ月後、ジョーダンは再び世間を驚かせる。94年2月7日、シカゴ・ホワイトソックスと野球選手として契約したと発表したのだ。ブルズのオーナー、ジェリー・ラインズドーフはホワイトソックスのオーナーでもあった。

 ジョーダンは、子供の頃はバスケットだけでなく野球にも親しんでいた。リトルリーグでは投手として何度かノーヒッターも記録。高校の最終学年でバスケットボールに専念したが、ノースカロライナ大でも野球部へ入部しようと試みたことがあった。93年のMLBオールスターでは、ホワイトソックスのユニフォームを着て有名人の参加するホームラン・ダービーに顔を見せていた。

 しかし、だからといってジョーダンが本格的に野球に取り組むなど誰も予想していなかった。一体何がそうさせたのだろうか?
  93年7月に最愛の父ジェームズが強盗に遭って命を落とし、ジョーダンは非常に大きなショックを受けていた。「子供の頃、父は私に野球選手になってほしいと思っていた」とも語っていて、亡き父の夢を叶えるために転向したのだ、と受け止められていた。

 もちろんこれは大きな動機ではあったが、それだけではない。3年続けて頂点を極めたことで、バスケットボールは彼にとってスリルを味わえるものではなくなっていた。いわば燃え尽き状態だ。闘争心に再び火を付けるためには新たなチャレンジが必要であり、それが野球だった。すでに数年前から野球への転向を考えていたようで、93年に優勝を決めた直後には、個人トレーナーに野球用のトレーニングを開始しようと相談していた。父の死という悲劇がなくとも、あるいは野球を始めていたのかもしれない。
  迎えた94年のスプリング・トレーニング、球界はジョーダンの話題で持ちきりだった。彼が行くところはどこも人であふれかえり、多くのファンがスーパースターのゼロからの挑戦に声援を送った。

 とはいえ、好意的な声ばかりでなかったのも確かだ。実際にバットを振れば不格好なスウィングで、外野フライを追いかける姿も素人丸出しだった。「あのバットスピードで打てるわけがない」と嘲笑する声が飛び交い、腕も脚も長すぎて「野球選手向きの身体つきではない」とは本人も認めていた。

“エアー・ジョーダン”と称された驚異的なジャンプ力は、野球ではそれほど必要な場面はなく、逆にホームランを打つためのパワーを生み出す下半身のボリュームに欠けていた。『スポーツ・イラストレイテッド』誌は「ジョーダンとホワイトソックスは球界の面汚し」と書き立て、同誌はその後長い間ジョーダンに取材を拒否された。
 「よそ者」が注目を集めるのを苦々しく思ったり、嫉妬したりする者もいた。引退したばかりのロイヤルズの名打者ジョージ・ブレットは「成功してほしくないと思っている人間は少なくないだろう。そんなに簡単に打てたら、打者は面目を潰されるからな」と語り、某球団の監督は「15年も野球をしていなかったヤツのせいで、ロースターから外される選手が出たらどうするんだ」と憤った。

 もっとも、その心配はなかった。オープン戦での成績は46打数7安打、打率.152と惨憺たるもので、メジャーのロースターにはとても入れられなかった。開幕を2Aのバーミンガム・バロンズで迎えることが決まると、バロンズのシーズンチケットはたちまち売り切れ、関連グッズも次々に品切れ状態となった。

 マイナーリーグでのデビュー前日である4月7日には、毎年恒例だったリグリー・フィールドでのカブスとのエキシビジョン・ゲームに出場。高校時代と同じ背番号45のユニフォームで、2本のヒットを放って2打点を挙げ、3万5000人の観客から盛大な拍手を送られた。
  一挙手一投足が大きな注目を集める中、ジョーダン自身は浮かれることなく謙虚な姿勢を保っていた。「誰もが知っている有名人として振舞おうとはしていなかった。あくまでチームの一員という姿勢だったから、俺たちにもすぐに受け入れられた」とホワイトソックスの遊撃手オジー・ギーエンは語っている。

 その姿勢はマイナーリーグでも変わらなかった。当初は相手投手が速球ばかり投げてきたので打率は3割を超えていたが、一転して変化球攻めに遭うと数字は急降下した。それでも「失敗は恐れない。挑戦をしないことのほうが嫌なんだ」と練習に取り組み続けた。

 打撃コーチのマイク・バーネットは「1日に5回も打撃練習をしていた。朝食前にケージで打ち込み、通常の練習をした後にはトスバッティング。試合前、そして試合後ももう一度ケージに入っていた。手は肉刺だらけで血まみれだった」と回想している。
  特別待遇も求めず、遠征の際に宿泊する安宿にも、目的地まで12時間かかるバス移動にも不平を漏らさなかった。ただしそのバスは、ジョーダン自身の希望で調達した新型ではあった。代金はジョーダンが支払ったと言われていたが、実際はバス会社がジョーダンのサインを車体に記す条件で提供した。

 そうは言っても、やはり特別な存在だったのは間違いない。普通のマイナーリーガーは、監督のテリー・フランコーナ(現クリーブランド・インディアンス監督)とトランプを楽しんだり、一緒にゴルフコースを回ったりはしない。ロッカールームに「友人」としてNBAのスーパースター、チャールズ・バークリーが顔を見せることもないし、相手チームの捕手からサインをねだられもしないはずだ。
  そして、30歳を過ぎて打率1割台の外野手がレギュラーで起用されることも絶対にない。客観的に見れば、ホワイトソックスは本来若手に与えるべき貴重な出場枠を無駄遣いしていたわけで、それ自体が「特別扱い」であった。
【後編へ続く】

文●出野哲也

【著者プロフィール】
いでの・てつや。1970年生まれ。『スラッガー』で「ダークサイドMLB――“裏歴史の主人公たち”」を連載中。NBA専門誌『ダンクシュート』にも寄稿。著書に『プロ野球 埋もれたMVPを発掘する本』『メジャー・リーグ球団史』(いずれも言視舎)。

【PHOTO】引退後もその影響力は絶大!NBAの頂点に君臨するバスケットボールの”神様”マイケル・ジョーダン特集

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