あと2年あればメジャーに昇格できた? あれから27年、“バスケの神様”マイケル・ジョーダンのMLB挑戦を振り返る【後編】

あと2年あればメジャーに昇格できた? あれから27年、“バスケの神様”マイケル・ジョーダンのMLB挑戦を振り返る【後編】

2Aでの成績は127試合で打率.202、3本塁打、30盗塁。もう数年続けていればメジャー昇格もあり得たと語る関係者もいる。(C)Getty Images

突然の野球挑戦で全米のファンを驚かせたジョーダン。しかし、案の定というべきか、スプリング・トレーニングでは結果を残せず、マイナーの2Aでも苦戦が続いた。それでも、ジョーダンは真摯に野球に打ち込んだ。

 マイナーでも、ジョーダンとチームメイトとの関係は良好だった。成績はともかくとして、遊び半分ではなく一所懸命であるのは伝わってきたし、年収3400万ドルの大金持ちでありながら、月給850ドルの若者たちを見下す態度は取らず、彼らと卓球を楽しみ、ときにはバスケットボールにも興じた。「若い選手たちに報道陣への対処法を教えていると、彼らの兄になったような気分だった。でも野球を教えてもらっていると、弟になったような感じがした」。

 ブルズのチームメイトだったBJ・アームストロングは、当時のジョーダンと電話で会話しているといつも「エゴのぶつかりあいもなく、あるのは夢と希望ばかり」の世界で、「ひたむきに夢を追いかけている若者と一緒にいることの楽しさ」を楽しんでいた――と振り返っている。
  いかにも彼らしい闘争心を見せた試合もあった。「11−0で勝っていた試合の終盤に彼が二塁打を打って、その後に三塁へ盗塁したんだ。『そんなことをしたら報復されるぞ』と忠告したら『NBAでは20点リードしていても30点へ広げようとする』と言い返されたよ」(フランコーナ)。乱闘が発生すれば真っ先にベンチを飛び出し、当時マリナーズの2Aジャクソンビルに在籍していたマック鈴木に食ってかかったこともあった。

 こうした毎日を過ごすうちに、野球の技能も少しずつ磨かれていった。カーブについていけるようになり、打球の飛距離も伸び始めた。7月30日には354打席目にして初本塁打を放ち、ベースを回りながら空を指さした。天国の父に向けてのメッセージだった。「今でもここにいてほしいと思って胸が詰まるけれど、(ホームランは)見てくれていたはずだ」。そのシーンは地元の放送局も報道陣も撮影しておらず、一般の観客から借りたビデオが全国のスポーツニュースで放映された。
  最終的には127試合で打率.202、3本塁打、51打点、30盗塁で失敗18回。守備では補殺を6回記録する一方で11失策を犯した。称賛できるような成績ではない。だが、十数年も野球に関わっていなかったことを考えれば、失敗の一言で片付けられる数字でもない。明らかに成功だったのは営業面。バロンズの年間観客動員数は46万人を超え、前年から169%もアップし、2番目に多いチームを15万人以上も上回った。

「シーズン終盤戦で手に入れた感覚を忘れたくないから」と秋季リーグにも参加して、36試合で打率.260をマークした。だが、野球への挑戦は突然終わりを迎える。MLBでは94年8月から選手会がストライキに突入し、残りのシーズンとポストシーズンがすべて中止になっただけでなく、95年に入っても解決の糸口を見いだせていなかった。
  2月になってキャンプが始まると、各球団は組合に属さないマイナーリーガーを代替選手として招集したが、選手会は彼らを組合破りと見なして厳しい姿勢で臨んだ。3Aナッシュビルへの昇格が決まっていたジョーダンは板挟みになる。試合に出られなければ上達は見込めない。そうかと言って、裏切り者にもなりたくない――迷った末、彼は3月10日に野球を断念する旨の声明を発表した。

 すでにバスケットボールへの情熱を取り戻し、ブルズの練習にも参加していたほどで、NBAへ戻るのは時間の問題だった。「I’m back.」の名台詞で復帰を宣言したのは、その8日後。ブルズでもしばらくは45番のユニフォームでプレーしていたが、ほどなく馴染みの23番に戻した。翌96年からは2度目の3連覇を成し遂げ、MVPトロフィーもさらに2つ追加している。
  志半ばで途絶えた野球への挑戦だったが、彼にとってはいい思い出になっているようだ。「野球界にはとても温かく迎えてもらった。夢の中を生きているような時を過ごせた」

 もしストライキがなかったなら、ジョーダンは成長を続けてメジャーリーガーになれたのか。ホワイトソックスの打撃コーチで、キャンプで直接ジョーダンを指導したウォルト・リニアックは「練習への取り組み具合は、殿堂入りした選手にも見劣りしなかった」と称賛したものの「30歳からでは遅すぎた」と否定的に見ている。
  だが、同じくコーチのジョー・ノセックは「前の年のキャンプからすれば、ものすごく進歩していた。あそこまで真剣に取り組んでいて、メジャーでプレーできないと斬って捨てることはできない」として、登録枠が拡がる9月には昇格のチャンスがあったのでは……と見た。バーネットは「あと2年もすればメジャーに上がれていただろうし、レギュラーになっていたかもしれない」と言っている。

 MLBと他のプロスポーツを両立できた選手がいなかったわけではない。最も有名な例は、MLBのカンザスシティ・ロイヤルズで外野手、NFLロサンゼルス・レイダースではランニングバックで活躍したボー・ジャクソン。89年に32本塁打、105打点、同年のMLBオールスターMVPに輝くと、翌90年はNFLのプロボウルに出場。両競技でオールスターに選ばれた唯一の選手となっている。
  NFLでスーパースターになったディオン・サンダースも、MLBで9年プレーし通算186盗塁、こちらはワールドシリーズとスーパーボウルに出場した唯一の例である。ジョーダンと同じバスケットボールでは、ジーン・コンリーが投手として2ケタ勝利5回(通算91勝)、オールスター3回。NBAでは6年間プレーし、ボストン・セルティックスの控えセンターとして3度の優勝を経験している。

 ただ、これら成功例に挙げられる選手が兼任していたのは20代の頃で、最も遅くまで両立させていたコンリーも、33歳でプロスポーツの世界から退いている。31歳での再スタートとなったジョーダンは、たとえMLBまで上がれたとしても長く活躍はできなかっただろうし、野球への挑戦が長引きすぎれば、NBAで再び頂点を極められたかどうかはわからない。
  しかし、野球への寄り道はまったくの無駄ではなかった。「野球を通して、彼は競争する楽しさを再発見できたのではないかと思う。もう一度バスケットボールに戻るきっかけになったんだ」とフランコーナは見ている。「マイケルの監督だったことは、この仕事を学ぶ上で最高の経験になった」とも言う。2004年、フランコーナはボストン・レッドソックスを86年ぶりの世界一へ導いたが、個性派集団をまとめ上げた手腕はジョーダンと過ごした日々を通じて培われたのかもしれない。

 最後に、ジョーダンはメジャーへ上がれたのかどうか? という疑問をフランコーナにも答えてもらおう。「『ノー』なんて言われたら、どんな手を使っても『イエス』に変えさせる男だ。私なら、反対票を投じようとは思わないよ」

文●出野哲也

【著者プロフィール】
いでの・てつや。1970年生まれ。『スラッガー』で「ダークサイドMLB――“裏歴史の主人公たち”」を連載中。NBA専門誌『ダンクシュート』にも寄稿。著書に『プロ野球 埋もれたMVPを発掘する本』『メジャー・リーグ球団史』(いずれも言視舎)。

【PHOTO】引退後もその影響力は絶大!NBAの頂点に君臨するバスケットボールの”神様”マイケル・ジョーダン特集

関連記事(外部サイト)