【2010年代通信簿:ヤクルト】球史に残る強打者を2人輩出しながらも投手陣の低迷で最下位4度

【2010年代通信簿:ヤクルト】球史に残る強打者を2人輩出しながらも投手陣の低迷で最下位4度

13年9月15日、56号・57号本塁打を放ち、プロ野球シーズン記録を塗り替えたバレンティン。その後も主砲として活躍を続けた。写真:朝日新聞社

2020年、新たな年代が幕を開ける。ここで改めて、各チームの過去10年間の戦績を通信簿形式で評価してみたい。2人のスーパースターがけん引したヤクルトの10年代を振り返ってみよう。

■2010年代通算成績
646勝743敗46分(勝率.465)/セ・リーグ5位(12球団11位)
日本一:0回 リーグ優勝:1回 CS進出:4回

通信簿:がんばりましょう

 ヤクルトの10年代は「山田哲人とバレンティンの時代」だった。11年に加わったバレンティンは1年目からいきなりリーグ最多の33ホーマーを放つと、12年は故障で長期離脱しながら2リーグ制下では初の規定打席未満での本塁打王に輝いた。そして13年はプロ野球新記録の60本塁打。最下位球団からのMVP受賞も含め「史上初」のオンパレードだった。バレンティンはその後も活躍を続け、故障で15試合の出場に留まった15年を除いて毎年30本塁打以上を放つ安定感で日本球界屈指の大砲として君臨した。
  一方の山田は10年ドラフトの外れ外れ1位で入団し3年目に正二塁手として一軍定着。翌14年に日本人右打者のシーズン記録となる193安打を放ち大ブレイクを果たした。そして翌年からは彼の代名詞にもなったトリプルスリー(打率3割・30本塁打・30盗塁)を2年連続で達成。18年にも3度目のトリプルスリー同記録を達成し、今や史上最強の二塁手との声すら出ている。

 しかし、この球史に残る強打者2人を擁しながら最下位を4度も味わい、10年代の通算勝率.465は12球団ワースト2位と、チーム成績は非常に不安定だった。原因は故障者の多さと投手陣の整備不良にある。10年に12勝して将来を嘱望された由規が11年に肩を痛め、5年連続2ケタ勝利を挙げていた館山昌平が13年にトミー・ジョン手術を受けて長期離脱。先発陣の屋台骨となるはずだった2投手が選手生命をほぼ台無しにする故障に見舞われた。
  13年に小川泰弘が最多勝&新人王に輝いたことを思うと、由規と館山の故障がなければチームの10年代は大きく違っていただろうと思わざるを得ない。振り返れば、先発防御率は10年にリーグ2位を記録したのを最後に続く9年間は5位、6位と低迷。このため、チームの躍進パターンはリリーフ陣がフル回転で好調の時と決まっていた。14年ぶりのリーグ優勝を果たした15年はセーブ王に輝いたトニー・バーネットを中心に秋吉亮、ローガン・オンドルセクが強力ブルペンを形成。2位になった18年も石山泰稚が71試合で防御率2.08、35セーブと大車輪の活躍を見せた。

 ドラフトに目を向けると、山田や昨年、本塁打と打点で高卒2年目選手の新記録を打ち立てた村上宗隆など超のつく成功例もある一方、全体としては芳しくない結果に終わっている。特に11年、14年のドラフトは育成含めて合計16人を指名しながら、一軍の戦力になった選手はほぼ皆無だった。
  だが、最優先で改善すべきは故障者対策だろう。投打関係なく頻繁に故障者を出し“ヤ戦病院”と揶揄されることもたびたび。古くは1980年代の荒木大輔や90年代の伊藤智仁、前述した館山らと故障で終わってしまう選手が多いのは球団の悪しき伝統だ。

 本拠地の神宮はアマチュア野球の聖地でもあり、ファームも含めた練習施設の充実度は他球団と比べて見劣りする状況。そのことも育成の成果に影響しているのかもしれない。昨年のドラフトで獲得した奥川恭伸という金の卵を故障から守り、開花させることができるか。その成否がヤクルト新時代への一つの指標となるかもしれない。

文●城ノ井道人

【著者プロフィール】
しろのいみちと。会社勤めの後、渡米してMLB記者として全米を飛び回る。。日米問わず若手有望株への造詣が深く、仲間内で「日本版ファンタジーリーグ」を毎年、開催して次代のスター発掘に余念がない。

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