史上最強と謳われる江川、通算13本塁打の清原、決勝でノーノーを達成した松坂――甲子園を席巻した“怪物”たち

史上最強と謳われる江川、通算13本塁打の清原、決勝でノーノーを達成した松坂――甲子園を席巻した“怪物”たち

98年夏、決勝戦でノーヒットノーランを達成した松坂は“怪物”だった。写真:産経新聞社

高校野球の歴史上、“超高校級”を超えて“怪物”扱いされた選手が何人かいる。圧倒的な実力と存在感からついた称号だ。今回は全国の高校球児たちの前に立ちはだかった“甲子園の怪物”たちを紹介しよう。

▼江川卓(作新学院)
出場:73年春・夏
言わずと知れた元祖“怪物”。なお、この異名は常人ばなれした剛速球だけでなく、耳が大きいところがマンガ『怪物くん』の主人公に似ていたことからつけられたものでもある。3年まで甲子園に出たことはなかったが、それ以前にも全国的に知られた存在だった。特に2年夏の栃木県予選では、3試合連続ノーヒットノーラン(うち1回は完全試合)。初めて甲子園に出場した3年春のセンバツでは、準々決勝まで1点も与えなかったが、準決勝は1対2で広島商に惜敗。再び県予選で3度のノーヒットノーラン達成を引っさげて乗り込んだ3年夏の甲子園では、雨天の中行われた銚子商業高との2回戦で延長12回にサヨナラ押し出し四球を与えて0対1で敗れた。結局1度も甲子園制覇は果たせなかったものの、全6試合で59.1回に投げて92奪三振。同時代の中の傑出度にかけては、史上最強と言っても過言ではないだろう。
 ▼清原和博(PL学園)
出場:83年夏、84年春・夏、85年春・夏
“怪物キヨマー”の異名を取った、並ぶものなき甲子園史上最強打者。名門PL学園にあって1年生から4番を打ち、同期の桑田真澄とともに83年夏から85年夏まで5季連続で甲子園に出場。不動の主砲としてチームを4度決勝進出に導き、1年夏と3年夏には全国制覇も果たしている。センバツ通算4本、夏の甲子園通算9本はすべて史上最多記録で、甲子園通算13本塁打ももちろん最多。2位はその半分の6本(桑田、元木大介、中村奨成)で、いかに傑出したパワーを持っていたかが分かる。2年夏には1試合3本塁打の最多記録も樹立。3年夏の甲子園では、準決勝と決勝で2試合連続マルチ本塁打を放ち、1大会5本塁打は当時の大会記録だった。記録が達成された宇部商との決勝戦を実況していた朝日放送の植草貞夫アナウンサーは、2本目を打った際に思わず「甲子園は清原のためにあるのか!」と絶叫したほどだった。
 ▼松井秀喜(星稜)
出場:90年夏、91年夏、92年春・夏
清原と同じく1年生の時から名門・星稜で4番を打ち、“北陸の怪童”として当初から名の知られた存在だった。2年夏の甲子園では、3回戦の竜ケ崎一戦で右中間へ特大2ランを放って観客の度肝を抜く。92年の春のセンバツからは、甲子園球場からラッキーゾーンを撤去されてホームランが出にくくなっていたが、大会前にそのことを聞かれた松井は、「僕には関係ありません」と豪語。宣言通りに大会記録となる3本塁打を放ってみせた。そしてこの年の夏の甲子園で、かの有名な「5打席連続敬遠事件」が起きる。2回戦で星稜と対戦した明徳義塾は走者がいる場面でも松井を敬遠して3対2で勝利。激しい論議を巻き起こした。作戦の是非はともかく、試合後に明徳義塾の馬淵史郎監督が語った「高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた」という言葉が、松井の“怪物”ぶりを如実に表している。
 ▼松坂大輔(横浜)
出場:98年春・夏
最速151キロの豪速球と、「消える」と言われたほど曲がる鋭いスライダーで、98年に春夏連覇を果たした“平成の怪物”。特に夏の甲子園では、準々決勝でPL学園と延長17回の死闘を演じ、準決勝の明徳義塾戦でも9回にリリーフして無失点。この力投に発奮した横浜ナインは、6点差をひっくり返す大逆転サヨナラ勝利を演じる。さらに決勝の京都成章戦ではノーヒットノーランを達成するなど、いくつもの伝説を作った。98年の春季関東大会で対戦した埼玉栄の主砲・大島裕行(のち西武)によると、嘘か真か松坂の速球で金属バットがへこんだともいう。また、横浜で松坂とバッテリーを組んだ小山良男(のち中日)は、彼の剛速球やスライダーを捕球するため、バットが当たりそうなほどの至近距離でノックを受ける特訓をした。キャッチャーですら捕るのが困難だったのだから、バットに当てることはなおさら至難の業。97年秋の神奈川県大会から98年秋の国体にかけて、横浜は公式戦44試合無敗という前代未聞の記録を打ち立てる。全国の高校生にとって、松坂はあまりにも巨大な壁だった。

▼田中将大(駒大苫小牧)
出場:05年夏、06年夏
“北の怪物”と呼ばれた田中が頭角を現したのは、2年生だった2005年夏の甲子園からだ。この時は背番号11の2番手投手だったが、チーム最多の25.2回を投げて夏の甲子園連覇に貢献。優勝の瞬間にもマウンドに立っており、9回最後の1球が2年生では史上初の150キロを計時したことでも話題を呼んだ。そして06年夏の甲子園、大会三連覇を目指す駒大苫小牧に対し、各校は“打倒・田中”を掲げて臨んだ。伝統的に強打のチームとして知られる智弁和歌山は、田中に打ち勝つため最速160キロのピッチングマシン特訓を敢行したが、それでも準決勝で対戦した際は2回からリリーフした田中の前に沈黙し、1点取るのがやっとだった。早稲田実業との2試合にまたがった決勝は史上屈指の名勝負となり、多くのファンを感動させたが、それは“ハンカチ王子”斎藤佑樹の前に、高校球界最強の投手だった田中が立ちはだかったからに他ならない。

文●筒居一孝(SLUGGER編集部)

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