【プロ野球トレード収支の大検証:第2回】“ミスター・タイガース”田淵と引き換えに、西武から“史上最強の1番”真弓を得た阪神のマル得トレード

【プロ野球トレード収支の大検証:第2回】“ミスター・タイガース”田淵と引き換えに、西武から“史上最強の1番”真弓を得た阪神のマル得トレード

西武移籍後にもオールスターに2度出場と、人気面では西武を牽引した田淵だが、成績面では……。写真:産経新聞社

▼1979年
真弓明信、若菜嘉晴、竹之内雅史、竹田和史(西武)⇔田淵幸一、古沢憲司(阪神)
阪神 +260.9/西武 −257.3


真弓明信    阪神    打率.287、277本塁打、824打点    248.0
若菜嘉晴    阪神    打率.269、19本塁打、127打点    4.4
竹之内雅史 阪神    打率.253、37本塁打、117打点    8.8
竹田和史    阪神    0勝1敗0S、防御率15.19    −6.6
田淵幸一    西武    打率.253、154本塁打、400打点    0.3
古沢憲司    西武    13勝28敗18S、防御率4.19    −1.4

 1969年にドラフト1位で入団して以来、田淵は阪神の主砲として活躍を続けてきた。その打力は捕手としては史上有数であり、45本塁打、102四球だった74年はPV92.8。これは、同年に三冠王となった王貞治(巨人)をも上回る数字だった。さらに翌75年には、43本塁打でタイトルを獲得し、打率も生涯唯一の3割(.303)に乗せてPV96.3という驚異的な数字を叩き出した。
  トレード前年の78年も38本塁打と、打力は依然として球界トップクラスだった。しかし、捕手としては79試合の出場にとどまり、逆に一塁での起用が増えるなど、守備力の低下が目立ち始めていた。そして、オフに新たに監督に就任したドン・ブレイザーの構想から外されてしまった。

 阪神が田淵を手放すとの情報を得て、阪急は加藤秀司、近鉄は神部年男、太田幸司らを交換要員に話を持ちかけた。だが、最も魅力的な条件を提示したのは、前年にプロ野球に参入したばかりの西武だった。新生ライオンズの目玉として、全国的な人気を誇る田淵がどうしても欲しかった西武は、強打者の竹之内に加えて、ともに25歳のオールスター遊撃手・真弓と強肩捕手・若菜の放出を決意。この思い切りの良さが決め手となって、球界屈指の強打者は埼玉へ活躍の場を移すことになった。

 阪神から放出を告げられた田淵は激怒し、当初は引退も辞さない構えだったが、最終的にトレードを受け入れた。西武の根本陸夫監督は法政大の先輩であり、さらに西武鉄道の本社がある池袋の近くで育ったため会社自体に馴染みもあって、西武に対しては悪い感情はなかった。一方、阪神に行く4選手は、セ・リーグの人気球団に移れるとあって異があろうはずもなかった。
 <阪神>真弓だけでなく若菜、竹之内も活躍
 阪神へ移った4人のうち、竹田は2年間で7試合に登板しただけで退団したが、他の3選手はみな貴重な戦力となった。中でも腰痛を抱える藤田平の後継者として、ブレイザーが直々に指名した真弓は球団史に残る名選手となった。

 移籍1年目こそPV2.6にとどまったが、80年には遊撃のリーグ新記録(当時)となる29本塁打を放ち、PV38.5はリーグ4位。さらに83年は.353の高打率で首位打者となり、PV47.8はトップだった。実力に加えて甘いマスクの持ち主とあって、ミスター・タイガースの掛布雅之に匹敵する人気選手となった。

 外野へコンバートされた85年は、1番打者ながら34本塁打を放ち、日本一に大いに貢献。91年までレギュラーをつとめ、その後は代打の切り札として41歳まで現役を続けた。阪神での17年間で、通算PVは248.0。これほどの名選手に成長するとは、獲得した時には思いもよらなかっただろう。
  若菜も移籍1年目に打率.303、9本塁打でPV15.9。前年の田淵に比べれば見劣りするが、捕手としては充分な成績。何より、太り過ぎて守備の動きが悪くなっていた田淵とは見違える機敏さだった。竹之内も79年は打率.282、25本塁打でPV17.4。79年の真弓・若菜・竹之内の合計PVは35.9で、田淵と古沢が記録した−14.7を大きく上回った。その後もPVの収支は、阪神移籍組が毎年リードしていた。

 竹之内は82年途中引退、若菜も球団とのトラブルにより同年限りで退団したが、真弓は田淵の引退後も11年にわたって現役を続け、91年までPVがマイナスの年はなかった。田淵を失ったマイナス面より、真弓を取ったプラス面の方がはるかに大きい、阪神にとって大成功のトレードだった。
 <西武>田淵の貢献度は印象ほどではなかった?
 西武においては、田淵は捕手でなく、一塁手や指名打者で起用された。移籍1年目からチーム最多の27本塁打と長打力は期待通りだったが、出塁率は.333でPV1.8どまり。翌80年はリーグ3位の43本塁打、97打点と好成績だったように映るが、それでもPVは4.5。この年のパ・リーグは飛ぶボールと高反発バットの影響により、極端な打撃優位であったこと、指名打者での出場が大半だったことが、PVが伸びなかった理由だった。さらに81年は、キャリア初のマイナスとなる−6.2。続く82年も25本塁打は放ったものの、.218の低打率で−4.8に終わった。

 83年は開幕から本塁打を量産。死球による故障で82試合にしか出られなかったが、打率.293、30本塁打と久々に好成績を残し、PVは18.6まで回復した。だが、翌84年は打率.230、14本塁打でPV−13.6に転落し、同年限りで引退した。西武では6年間で154本塁打を放ちながら、合計PVは0.3とわずかなプラスに終わった。ともに移籍した古沢も、西武には3年間在籍して8勝24敗16セーブ、PVは−16.5で、82年に高橋直樹とのトレードで広島へ去っている。
  さらに西武は、放出した真弓や若菜らの穴埋めも、うまくいかなかった。若菜に代わる捕手として79年にメインで起用されたのは、44歳の野村克也で、PVは−5.4。他にも田淵を含めて6人が先発で使われるほど、捕手の固定には苦労した。真弓の後釜の遊撃には、前半戦は大原徹也、後半戦は行沢久隆を起用したが、PVはそれぞれ−11.7、−9.8。阪神で飛躍した真弓との差は開くばかりだった。81年にドラフト1位で石毛宏典が入団し、即戦力として活躍し始めたために、真弓の放出による損失は79・80年の2年だけで済んだ。だが若菜の穴は、伊東勤が83年に正捕手となるまで埋められずにいた。

 全国的な人気選手であった田淵は、新生ライオンズの広告塔としての役割は十分果たした。西武球団を早期に軌道に乗せるには、実力はあっても無名の真弓や若菜より、田淵や野村の方が効果的だったのは確かで、そうした観点ではトレードが失敗だったとは言えない。だが、代償として真弓を手放したのは損失が大きすぎたのも確かだった。

文●出野哲也

【著者プロフィール】
いでの・てつや。1970年生まれ。『スラッガー』で「ダークサイドMLB――“裏歴史の主人公たち”」を連載中。NBA専門誌『ダンクシュート』にも寄稿。著書に『プロ野球 埋もれたMVPを発掘する本』『メジャー・リーグ球団史』(いずれも言視舎)。
 

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