ベーブ・ルースの不滅の記録を更新し、人種の壁を超えた存在に――メジャーの歴史を変えた男ハンク・アーロン

ベーブ・ルースの不滅の記録を更新し、人種の壁を超えた存在に――メジャーの歴史を変えた男ハンク・アーロン

黒人に対する差別に負けることなく活躍を続け、ルースの記録を破ったアーロン(写真)の歴史的意義は計り知れない。(C)Getty Images

1974年、ハンク・アーロンはベーブ・ルースが持ってた通算714本塁打の記録を超えた。これは単に本数で歴代1位になったというだけではなかった。国民的娯楽のMLBで、白人のスーパースターが打ち立てた不滅の大記録を黒人選手が塗り替えたのだ。その事実にどれほど大きな意義があったのか、2020年代の日本人が実感を持って受け止めるのは難しいかもしれない。

 54年にブレーブスへ昇格した当時、アーロンがルースの記録を超えると予想した者は皆無だった。その可能性があるかもと思われていたのは、チームメイトで2歳年上、メジャー2年目に47本塁打を打ったエディ・マシューズか、同じアラバマ州出身で3歳年上、アーロンのデビュー時にはすでに全国区のスターになっていたウィリー・メイズ(当時ジャイアンツ)だった。

 アーロンも4年目の57年に44本塁打を放って最初のタイトルを取ったが、若手時代はどちらかと言えば高打率を残すタイプだった。アーロンにとってホームランとは「思い切り振り回して、フェンスのはるか向こうまで飛ばす必要はない。外野席の2〜3列目まで届けばいい」程度の思い入れしかなかった。
  堅実で派手なところのないプレースタイル、物静かで注目を浴びたがらない性格。しかもミルウォーキー、アトランタといった地方都市の球団にいたことで、メイズやミッキー・マントル(当時ヤンキース)、アーニー・バンクス(当時カブス)ら、大都市の人気球団にいた同時代の選手たちに比べて地味な印象はあった。

 だが打撃だけでなく、走塁や守備面も高いレベルにあったアーロンを、マントルは「一世代前のジョー・ディマジオがそうだったように、俺たちの世代では彼が最高の選手だ。もっと正当に評価されて然るべきだと思う」と称賛していた。
  アーロンの一番の武器は、ほとんど怪我をしない丈夫な身体だった。何しろ最初の17年間は、ルーキーイヤーを除けば年に最低でも145試合に出ていたのである。普通なら長打力に陰りが見え始める30代になってからも、本塁打の量産ペースは落ちないどころか加速していった。

 66年にブレーブスがアトランタに移転し、本塁打が出やすいことから“ロケット発射場”の異名を取ったフルトン・カウンティ・スタジアムが本拠になると、長打狙いの打撃に変更。71年には37歳にして自己最多の47本塁打を記録したが、世が世なら薬物疑惑をかけられていたかもしれない。気が付けば本塁打の数はマシューズを超え、メイズを抜き、ルースにひたひたと近づいていた。73年には8度目の40本台に乗せ、ルースにあと1本と迫った。
  多くのファンにとって、ルースの記録は絶対的なものだった。61年にロジャー・マリスがシーズン61本塁打の新記録を達成した時、同じ白人、同じヤンキースの選手であるマリスでさえ、さまざまな重圧に晒され、円形脱毛症になったくらいだった。記録を破ろうとしているのが黒人となれば、その圧力はマリスの比ではなかった。

 すでに60年代の公民権運動などを通じて、黒人の社会的な立場は改善されてはいたが、それでも目に見えない部分での反感や反発は大きかった。ブレーブスの球団事務所やアーロンの自宅には毎日のように脅迫状が舞い込み、自身だけでなく家族にもボディガードを用意しなければならなかった。南部のアラバマ州生まれで、子供の頃から差別を知っていたアーロンだったからこそ、こうした脅迫にも耐えられたのかもしれない。

「そのような声を聞くたびに、ますます記録を更新しようという気持ちをかき立てられた。それは自分のため、家族のため、ジャッキー・ロビンソンのため。そして、私をニガー呼ばわりした人のためでもあったんだ」。そしてもちろん、そのような嫌がらせよりも寄せられる声援の方が大きかったことは忘れてはならない。アーロンにとっては脅迫などより、連日繰り広げられるメディアの過熱報道の方がよほど煩わしかったという。
  迎えた74年、シンシナティでの開幕戦でさっそく本塁打を放ってルースに並ぶ。本拠地アトランタでの記録達成を視野に入れて2戦目は欠場。3戦目はコミッショナーのボウイ・キューン直々の指令で先発出場したものの、狙い通りに(?)本塁打は出ず、4月8日のホーム開幕戦を迎える。

 第2打席、ドジャースのアル・ダウニングの投じた速球を、アーロンは左翼フェンス後方のブルペンへ打ち込んだ。ベースを回る際には、スタンドから興奮した2人の白人青年がグラウンドへ降りてきて、アーロンの肩を叩いた。アーロンに危害を加えるつもりは、彼らには毛頭なかった。そこにはただ、偉大な記録を純粋に祝福する気持ちだけがあった。

 実況アナウンサーのビン・スカリーは、「何という素晴らしい瞬間でしょう……黒人が野球史上最高のアイドルの記録を破ったことで、ディープ・サウスのスタンディング・オベーションを浴びているのです」と語った。アトランタは、南部でも特に人種差別の激しかったディープ・サウス(深南部)に位置する街。ロック歌手のニール・ヤングが『サザン・マン』で、南部に根強く残る差別意識を告発したのは、ほんの4年前のことだった。そのアトランタで新記録が達成されたのは、他の都市以上に大きな意味があった。
  その後も2年現役を続け、755本まで本数を延ばしてアーロンはバットを置いた。31年後にはバリー・ボンズ(当時ジャイアンツ)が彼の記録を塗り替えたが、今でも多くの人が「ボンズはステロイドキングで、アーロンこそ真のホームランキング」と言い張っている。薬物で増強された肉体が生み出したボンズの記録は偽物だというのが、彼らの主張なのだ。

 その言い分が正当かどうかはともかく、たとえ本数で上回っても、ボンズが乗り超えた障壁の高さはアーロンとは比べものにならなかった。ボンズが乗り超えたのは単なる数字でしかない。だがアーロンの715号のボールが外野フェンスを飛び越えた時、それは27年前のジャッキー・ロビンソンと同じように、白人と黒人を隔てていた壁をも超えたのだった。

文●出野哲也

※『Slugger』2017年8月号増刊「MLB 歴史を変えた100人」より転載
 

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