ラッキーゾーン撤去から始まった92年タイガースの快進撃。八木裕「なんぼ点とればええの?」から投手陣が変わった

1992年の猛虎伝〜阪神タイガース"史上最驚"の2位
証言者:八木裕(前編)

「ちょっとすまんけど、外野にいってくれんか。今度、甲子園球場のラッキーゾーンがなくなって、今の外野手では守りきれんような広さになるから」

 阪神が2年連続最下位に終わった1991年のシーズンオフのことだ。三塁でレギュラーの八木裕が、中村勝広監督から外野転向を打診された。同年12月にラッキーゾーンが撤去され、甲子園球場の右中間、左中間が8メートル広くなるにあたり、足と肩のある選手が求められた。白羽の矢が立てられた時の心境はどうだったのか。当時、プロ5年目だった八木に聞く。


92年に内野から外野へコンバートされた八木裕(写真左)と中村勝広監督

三塁から外野へコンバート

「まず、監督ってこんなこと直に言ってくれるんだと思いましたね。別に私はサードもあまりうまくないし、自信もなかったですけど、そろそろ慣れてきた頃ではあったんです。でも、こちらに拒否する権利はないですし、『わかりました』と。センターはやったことなかったですから、『練習して、やります』と」

 早速、秋季キャンプから、新任の島野育夫外野守備走塁コーチに指導を受けた。前年までの中日コーチ時代の怖い印象があり、八木は戦々恐々としたが、意外にもやさしく丁寧に教えられた。新たなポジションもこなせると思ったが、問題は打つほうだった。

 八木は岡山東商高から三菱自動車水島を経て、86年のドラフト3位で入団。プロ2年目の88年に米マイナーチームで1シーズン野球留学し、パワー重視の打撃を勉強して帰国した。すると翌89年に16本、90年に28本、91年に22本と本塁打を量産(90年、91年はチーム最多)。それだけに、ラッキーゾーンの撤去は死活問題と言っても過言ではなかった。

「『大変なことになるな』と思いました。ほかの選手や裏方さんには『おまえはラッキーゾーンに入ったホームランはほとんどない。大丈夫じゃないか」と言われましたけど、実際には何本かありました。チームにはほかに打つ人があまりいなかったので、ホームランが自分のアピールポイントでしたから、厳しいシーズンになるであろうと予想して92年を迎えました」

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