週刊アサヒ芸能「創刊60年の騒然男女」スポーツ界「波乱のウラ舞台」<相撲篇/葬られた「確執」>(1)北の富士「横綱昇進ヤラセ告発」で関係者が急死

週刊アサヒ芸能「創刊60年の騒然男女」スポーツ界「波乱のウラ舞台」<相撲篇/葬られた「確執」>(1)北の富士「横綱昇進ヤラセ告発」で関係者が急死

週刊アサヒ芸能「創刊60年の騒然男女」スポーツ界「波乱のウラ舞台」<相撲篇/葬られた「確執」>(1)北の富士「横綱昇進ヤラセ告発」で関係者が急死

 大相撲を揺るがせた最大のスキャンダル──。八百長告発をした親方と後援者が同じ日、同じ病院、同じ病名で死亡した「疑惑の事件」である。

 事件の原因となった大鳴戸親方(元関脇・高鐵山)の八百長告発は、週刊ポスト誌上で96年に連載され、「元大鳴戸親方 相撲協会一刀両断」のタイトルで、単行本としても発売された。

 その書き出しからして衝撃的である。

〈料亭「おきみ」に一同が会したのはそれなりの理由があった。前場所、昭和44年11月の九州場所、北の富士は優勝した。昭和45年1月の初場所。ここで優勝すれば、横綱昇進のための連続優勝という条件を満たす。「我々の手で北の富士を横綱にしようではないか」と提案している面々は「今場所こそ勝負だ」とばかり気合十分。その結束を固めるための会合でもあった〉

「おきみ」には北の富士、北の富士の名古屋後援会副会長で相撲界の闇将軍として君臨した橋本成一郎氏、そして大鳴戸親方と栃王山、四季の花、龍虎、睦奥嵐の面々が集まった。北の富士以外の力士は、八百長力士の「仲間」として北の富士を迎え入れようという勢力である。

 そこで「兄弟盃」を交わすと、本場所とともにさまざまな「裏工作」に走り回った。結果、北の富士は2場所連続優勝し、横綱審議委員会から「文句なく横綱昇進の条件を満たした」のお墨付きをもらう。

 大鳴戸親方の告発連載は反響を呼び、外国人記者クラブで講演する予定だった。ところが、講演を12日後に控えた4月14日、事態は急展開を迎える。大鳴戸親方と、その告発を証言者として側面支援した橋本氏が、愛知県内の藤田保健衛生大学病院で、ともに帰らぬ人となったのだ。死因もそろって、肺の機能が低下するレジオネラ菌による重症肺炎ということだった。

 ちなみに、死の前日、2人は連れ立ってゴルフに出かけているが、体調不良を訴えて入院。わずか1日で2人とも謎の死を遂げたことになる。

 大鳴戸親方の弟子で、現在は東京・吉祥寺でどりんくばぁー「維新力の店」を経営する維新力はこう証言する。

「あの時はね、自分もプロレスに転向し、大鳴戸親方も武蔵川親方(元横綱・三重ノ海)に株を売却し、協会を離れていた。僕自身は元後援者と『こんな不可思議なことはない』と話していたけど、結局、事件は闇から闇へと葬られた。真相と言われても、わかりませんね。ただ、自分の師匠がこんなことになるなんて、まさに青天の霹靂だったことは事実ですよ」

 世間は「2人とも殺されてしまった」と受け止め、マスコミは騒ぎ立てた。「やはり相撲協会は怖い。暴力団を使ったのか」と詮索もされた。

 相撲ジャーナリストの中澤潔氏が言う。

「偶然にしてはできすぎている気はします。今から思えば、あの時、相撲協会が姿勢を正していれば、(11年に発覚した)十両力士の八百長騒動もなかったはずです。私は大関の魁皇と千代大海の対戦をしばらく記録したことがあるんです。奇妙なことに、一方がカド番になると、もう一方が負けてやるという結果がはっきり出ていた。大関同士の助け合いはひどいものでした。はっきり意識して負けてやったわけではないかもしれないが、十両の力士からすれば、大関がやっているのだから自分たちもと、八百長がエスカレートした可能性はあると思いますね」

 とすれば、大鳴戸親方が告発を開始した時期は、力士たちに八百長根絶の警鐘を鳴らす時期だったとも言える。

 もしあの時、「臭い物には蓋」式の対応を取ることなく毅然と対応していれば、もっと風通しのよい相撲協会になったはずである。

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