サッカー少年の憧れがバルサやレアルではなく、あの日本のクラブだった時代──運命を変えた真相とは

サッカー少年の憧れがバルサやレアルではなく、あの日本のクラブだった時代──運命を変えた真相とは

学生時代に憧れた読売クラブの思い出を語ってくれた宮澤ミシェル氏

サッカー解説者・宮澤ミシェル氏の連載コラム『フットボールグルマン』第6回。

現役時代、Jリーグ創設期にジェフ市原(現在のジェフ千葉)でプレー、日本代表に招集されるなど、日本サッカーの発展をつぶさに見てきた生き証人がこれまで経験したこと、現地で取材してきたインパクト大のエピソードを踏まえ、独自視点でサッカーシーンを語る――。

今回は、日本サッカー界にまだプロリーグがなかった30年前、日本の多くのサッカー少年たちが憧れたあのクラブについて

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世界中のサッカーをTVだけではなく、スマホでも簡単に観られる2017年ーー本当に凄い時代になった。きっと、いまの子どもたちにはバルセロナもレアル・マドリードもマンチェスター・ユナイテッドもバイエルン・ミュンヘンも身近な存在なのだろう。

私の頃といえば、サッカー番組はテレビ東京の『ダイヤモンドサッカー』しかなかった。そこで取り上げられる海外チームは憧れのクラブというより、遠い遠い存在だった。

そんな時代に私が憧れたチームは、読売クラブだ。彼らのサッカーを観たことで憧れを抱くようになったわけではなく、一緒にプレーする機会を通じて「将来はこのクラブに入りたい」と強く思うようになった。

最初の出会いは高校時代。学校のサッカー部の監督から「読売クラブで練習してこい」と送り出され、高校で試合がない時は基本的には読売クラブで練習していた。

練習グラウンドがあった「よみうりランド」までの移動は電車。千葉県市原から行くと2時間近くかかる。高校の先輩は2日くらいで行かなくなったが、私は読売クラブでの練習が楽しかったので、移動距離の遠さにめげることはなかった。

あの頃はラモス瑠偉がまだ22、23歳くらいで、若い選手たちが多く活気に満ちていた。ラモスの幼なじみのジョージ・トレドには互いに言葉もわからない中、決してきれいとは言えない寮の部屋に泊めてもらったりもした。

そうした経緯もあって、高校卒業を控えてほとんどの日本リーグの企業のサッカー部から誘われたけれど、世話になっていた読売クラブに入団しようと考えていた。そして、現役を退いたら体育教師になろうと漠然とだが決めていた。

そのことを母に告げると「体育の先生になるには大学を卒業しないとなれないよ」と言われて愕然とした。今にして思えば、それぐらい知っておくべきなのだが(苦笑)。とにかく高校3年生の私は、慌てて大学進学の可能性を模索したというわけだ。そして最終的に「大学を出て、その時にまた誘われたら読売クラブに行こう」と決めた。

国土舘大に進学してサッカー部に入り、3年時にFWからDFに転向。不慣れなポジションを任され、「これでは日本リーグのチームからは誘われないな」と諦めかけたこともあった。だが、DFの奥深さに気づいてその面白さにのめり込むうちに、再び実業団から声がかかるようになった。

私が大学4年の頃に読売クラブを率いていたのは、グーテンドルフというドイツ人監督だった。国士舘大は鶴川にグラウンドがあり、よみうりランドが近かったこともあって、4年生になるとグーテンドルフ監督に呼ばれて、よく読売クラブで練習していた。

当時、国士舘大がマンツーマン・ディフェンスをしていたことが練習に呼ばれた大きな理由だった。グーテンドルフは読売クラブにマンツーマンDFを浸透させようとしていたが、うまくいってなかったため、私たち国士舘大の学生が練習後半から読売クラブの選手に代わってDFラインを統率することもあった。

日本リーグのチームの練習に大学生が駆り出される――。当時を振り返るとのどかな時代だったと思う。そうした繋がりもあって、大学卒業時には読売クラブからも声がかかった。高校時代から入団する気満々だったクラブだから、願ったり叶ったりの話だ。

しかし、結果的にはフジタ工業へ入団した。当時の私は外国籍だったこともあり、外国人選手の多い読売クラブでは試合出場のチャンスはないだろうと判断したからだ。…と、それが断った理由のひとつではあったが、もう30年も前のことで時効だから本当のことを話そう。

実際には、国籍の問題はあったものの読売クラブに入団する気でいた。だけど、最終的に提示された条件があまりいいものではなかった。しかも大卒の選手は寮に入れないと言われてね。

他のチームの条件は読売クラブより給料が高く、寮も完備していて、朝晩の食事がついて寮費は月に1万5千円。加えて入団のための準備金をもらえる制度もあった。読売クラブでサッカーはしたいけれど、選手としてより高い評価をしてくれるクラブに行こうと考え、また母が安定した企業のフジタ入りを強く推すこともあって、諦めざるを得なかった。

私が大学を卒業する1985年当時の日本リーグは読売クラブとフジタが2強を形成していた。フジタという企業がサッカーへの理解も深く、日本サッカー界を牽引する存在だったことも後押しになり、お世話になることになった。

ただ、入団してから数年が経って、そのフジタが1993年から誕生するJリーグに参戦しないと発表した時はショックだった。社会人2年目の1987年からプロ契約選手としてプレーしてきた私にとって、プロリーグの誕生を指をくわえて見ているなんてできなかった。

30歳が目前に迫り、選手として先があまり長くないことはわかっていたから、最初で最後の移籍を決意した。当然のように移籍先として読売クラブのことは意識した。1992年からチーム名はヴェルディ川崎になっていたが、私が移籍を考えていると噂を聞いたラモスから「うちに来いよ!」と誘われもした。

そして、ヴェルディをはじめ、いろいろなクラブから声をかけていただき、最終的には地元のジェフ市原に決めた。大きな理由は千葉県立市原緑高と国士舘大の1年先輩で、日本代表で左サイドサックも務めた佐々木雅尚さんの「現役最後は地元のジェフで一緒にプレーするのはどうだ?」という言葉があったからだ。

そして、私が千葉出身ということを大事にしてくれたジェフ市原が、移籍に際して最大限の努力してくれたことも私の気持ちを固めてくれた。当時は契約などの移籍制度が整備されてない上に、社会的にも移籍が容認されにくい環境だった。そのため交渉は揉(も)めに揉めたが、クラブの皆さんの多大なる尽力で、晴れてジェフ市原の一員になれた。

そして、ジェフ移籍後に長年の念願だった日本国籍を取得。これはあくまでも仮定の話にはなるが、国籍取得がもっと若い時のタイミングだったら選択は変わっていたかもしれない。高校時代から憧れ続けた読売クラブのユニフォームに袖を通し、10代の頃から切磋琢磨したラモスと一緒のチームでプレーしていた可能性は高い。人生なんて不思議なものだ。

ひとつ、寂しいことがある。読売クラブの流れを汲む東京ヴェルディと、ジェフ千葉がともにJ1からJ2に降格して、ここ数年、昇格できずにいることだ。Jリーグ初代王者のヴェルディとJリーグブームを牽引したジェフが再びJ1で華々しく躍動する姿が見られるのを心待ちにしている。

(構成/津金壱郎 撮影/山本雷太)

■宮澤ミシェル







1963年 7月14日生まれ 千葉県出身 身長177cm フランス人の父を持つハーフ。86年にフジタ工業サッカー部に加入し、1992年に移籍したジェフ市原で4年間プレー。93年に日本国籍を取得し、翌年には日本代表に選出。現役引退後は、サッカー解説を始め、情報番組やラジオ番組などで幅広く活躍。出演番組はNHK『Jリーグ中継』『Jリーグタイム』など。

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