Jリーグが始まって25年──戦友、ラモス瑠偉の情熱を超える選手をいまだ知らない

Jリーグが始まって25年──戦友、ラモス瑠偉の情熱を超える選手をいまだ知らない

日本サッカーをともに盛り上げてきたラモス瑠偉について語った宮澤ミシェル氏

サッカー解説者・宮澤ミシェル氏の連載コラム『フットボールグルマン』第7回。

現役時代、Jリーグ創設期にジェフ市原(現在のジェフ千葉)でプレー、日本代表に招集されるなど、日本サッカーの発展をつぶさに見てきた生き証人がこれまで経験したこと、現地で取材してきたインパクト大のエピソードを踏まえ、独自視点でサッカーシーンを語る――。

今回は、現役時代日本代表としても活躍し、日本サッカー界をけん引し続けているラモス瑠偉との長年にわたる交流について

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Jリーグが始まって25年。日本人選手たちのサッカー技術は格段に高まり、80年代までは夢の舞台だったW杯にも1998年のフランス大会で初出場してから5大会連続で出場を続けている。

多くのサッカー人の念願だった日本サッカーのプロ化によって、国内のサッカーレベルは飛躍的に向上したが、一方で大切なものを置き忘れてしまったのではと感じることがある。

それが、勝負に対してこだわる“熱さ”だ。私の現役時代はそれをピッチで表現できる選手は数多くいたが、代表格といえば間違いなくラモス瑠偉である。

ラモスは1957年生まれだから、年齢は私よりも6歳上になる。彼は1977年に19歳で来日し、現在の東京ヴェルディの前身である読売クラブに入団した。

まだJリーグが生まれる前の“日本リーグ”と言われた時代、ブラジルでの実績のない20歳そこそこの選手は、人一倍の負けん気で瞬く間に読売クラブの中心選手になっていった。

日本リーグからJリーグへと移行していく中でもラモスは、日本でプレーした他のどのブラジル人選手よりもブラジルでの知名度や実績は乏しかったが、サッカーに対する自負心は誰よりも高く、それに相応するだけの努力をしていた。

1989年に日本国籍を取得し、90年からは日本代表の10番を背負って中核を担い、93年の“ドーハの悲劇”のW杯予選では36歳ながらも猛暑の中、懸命に走りボールを追い続けた。だからこそ、ラモスは日本でスター選手としての地位を築くことができたのだ。

私は高校時代にサッカー部の先生の勧めで、読売クラブで練習していたこともあって、その頃からラモスのことを知っている。付き合いはかれこれ40年以上にもなる。

印象に強烈に残っているのは、私がジェフ市原に移籍した年に北海道の厚別で行われたヴェルディ川崎(現在の東京ヴェルディ)とのプレシーズンマッチのことだ。

試合前の入場を控えて整列していると、その試合に出場予定のないラモスが遠くから私に向かって「テメー、コノ野郎!」と罵(ののし)ってきた。そして、整列している私のところまでツカツカと歩いてくると襟首をつかんで「ユニフォーム、脱げ!」とカッカしている。まさに一触即発状態。

事の経緯はこうだ。私はJリーグ誕生にあたって92年にフジタ工業から高校時代を過ごした地元の市原に誕生したジェフへと移籍した。だが、その移籍が決まるよりも前にラモスから「ミシェル、ヴェルディに来いよ!」と誘われ、私も「ああ」と口約束をしていたのだ。

それを反故(ほご)にしたことをラモスは怒っていたのだ。私が高校の頃から読売クラブ(当時)でのプレーを望みながら実現できなかったことも知っているし、当時の私は外国籍で、外国人枠の兼ね合いもあってフジタ工業からヴェルディへの移籍を見送ったのもわかっていた。

それでも文句をつけに来るほど、ラモスは私と一緒にプレーすることを望んでくれていたのだ。今、振り返っても、あれほど熱望してくれたことは嬉しくて胸がぐっと熱くなる。

かわいそうだったのは、そんな事情も知らないジェフ市原のチームメイトだ。日本代表の10番を背負う天下のラモスが、突如として私に噛みつき出したから、みんなが呆気にとられていたよ。

審判の静止もあり、「試合後に話そう」となって、私はキャプテンマークを巻いて試合に出場した。そして試合後、ラモスと話そうと思って探したら、競技場のどこにもラモスの姿はなかった。瞬間湯沸かし器のようにすぐに熱くなり、思っていることを言ったらスッキリする。それもラモスの良さだ。

私がフジタ在籍時もジェフ移籍後も、ラモスとはブラジル人選手を交えてよく一緒に食事をしたものだ。トレド(読売クラブ)や、トレドの弟のエジソン(読売クラブ―フジタほか)、ピッタ(1992年にフジタ)や、ベッチーニョ(1993年〜フジタほか)、アウミール(1994年平塚)と、一緒にいるブラジル人選手はその時々で変わったけれど、いつも「一番稼いでいるのはラモスだから」と彼がご馳走してくれた。

Jリーグが誕生したある日、私とラモスとエジソンの3人でいつものように原宿の通り沿いにあるコーヒーショップでサッカーについて話しこんでいたら、いつの間にか窓の向こう側が大勢の人だかりになっていたことがある。

ラモスはあの風貌で目立つし、すでにビッグネームだったから当然だけど、コーヒーを飲み終わってお店を出て歩き始めたら、その人だかりも一緒についてきてね。たくさんの人がラモスを追いかける光景を目の当たりにして「プロとはこういうことか」と実感したのをよく覚えている。

でも、後日が大変だった。会う人が口々に「ミシェル。原宿のカフェでエジソンと一緒にラモスから説教されていたそうだな」と言ってきた(苦笑)。ラモスはプレーだけじゃなく、喋りだすと熱くなるし、知らない人からはそう見えたらしい。

結局、クラブでも代表でも一緒のチームでプレーすることはなかったが、今でもラモスほど、“オレがチームを強くする”、“代表を強くしてW杯に出る”という強い気概を感じさせるプレイヤーはいないと思っている。勝負への熱さでラモスを超える日本人選手が現れた時、日本代表はさらに強くなるのだろう。

(構成/津金壱郎 撮影/山本雷太)

■宮澤ミシェル







1963年 7月14日生まれ 千葉県出身 身長177cm フランス人の父を持つハーフ。86年にフジタ工業サッカー部に加入し、1992年に移籍したジェフ市原で4年間プレー。93年に日本国籍を取得し、翌年には日本代表に選出。現役引退後は、サッカー解説を始め、情報番組やラジオ番組などで幅広く活躍。出演番組はNHK『Jリーグ中継』『Jリーグタイム』など。

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