アヤックスが最強だった頃【雑誌SKアーカイブ】

アヤックスが最強だった頃【雑誌SKアーカイブ】

スター軍団のミランを下してCL制覇を果たしたアヤックス [写真]=Getty Images

[サッカーキング No.003(2019年6月号)掲載]

アヤックスの「史上最高傑作」を選ぶならヨハン・クライフを擁した1970年代だろう。だが、人々の記憶に強く刻まれた時代が他にもある。ルイ・ファン・ハールのもとで若者たちが強烈なインパクトを残した、あの黄金期だ。

文=アレック・フェン
翻訳=田島 大
写真=ゲッティ イメージズ

 それは1995年のチャンピオンズリーグ決勝前夜のことだった。息子の晴れ舞台を翌日に控えたリドヴィナ・クライファートは、わずかに緊張しつつ眠りについた。深い眠りの中で、彼女は途中出場から決勝点を奪う息子パトリックの姿を見た。翌朝、それがあまりにも鮮明に脳裏に焼きついていたから、本人に伝えずにはいられなかったという。

 その日の夜、彼女の夢は現実のものとなっていた。5万人が詰めかけたウィーンのエルンスト・ハッペル・シュタディオンで、ベンチから登場した18歳のストライカーはミランから決勝ゴールを奪ってみせた。

 両チームの選手リストを見比べれば、リドヴィナの夢が実現するとはとても考えられなかった。当時のアヤックスは、エドガー・ダーヴィッツ(22歳)やクラレンス・セードルフ(19歳)、ヤリ・リトマネン(24歳)といった若手が中心で、決勝を戦った18人の平均年齢は23歳。そのうち実に13人が生え抜き選手だった。

 一方のミランは前シーズン、バルセロナを4−0で蹴散らし、7年間で3度目となる欧州制覇を成し遂げていた。26歳に満たないのは一人だけで、リストにはマルセル・デサイー、ズヴォニミール・ボバン、ジャンルイジ・レンティーニといった、各国から大金で呼び寄せたスター選手たちが名を連ねた。

 だから試合結果は驚きだった。だがそれ以上に衝撃的だったのは、アヤックスが繰り広げたフットボールだ。パス、スプリント、フェイント、シュート……すべてのプレーに意図があり、華麗な攻撃パターンが目まぐるしいほどのスピードで展開されていた。

「アヤックスは単に1990年代を代表するチームではない。彼らはフットボールの理想郷に足を踏み入れた。彼らのスタイルは優美でありながら、フィジカル面でも他を寄せつけなかった」。当時、レアル・マドリードで指揮を執っていたホルヘ・バルダーノの言葉どおり、彼らは芸術的なフットボールでエリートクラブたちを圧倒した。

 一体、誰がこんなチームを作り上げたのか? ヨハン・クライフではない(当時、クライフはバルセロナで輝きを失っていた)。このとき、ある人物がアヤックスに新時代を築いていたことは、誰にも知られていなかった。

3人のエキスパートを招聘し、スポーツサイエンスを導入

 1991年9月、当時41歳だったルイ・ファン・ハールはレオ・ベーンハッカーの後任として監督に就いた。アシスタント経験はあったものの、監督としては青二才に過ぎなかった彼を、ファンは歓迎していなかった。オランダの全国紙『テレグラフ』は新監督を「礼儀知らず」と呼び、クラブの象徴であるクライフを呼び戻す運動まで始めた。

 それでも、ファン・ハールが掲げる理想は誰よりも高く、そして明確だった。彼の哲学は、名将リヌス・ミケルスがアヤックスで1970年代に確立したトータル・フットボールの進化版だった。それぞれの選手があらゆる役割をこなすことで、いついかなるときも陣形を維持し、集団で素早くボールをハントする。技術面はもちろん、戦術理解度と究極の身体能力が求められるシステムだ。

 この戦術を実現するには、才能だけでなく自己犠牲の精神を持つ選手が必要になる。そこで彼は、自分のシステムに適応できる選手を“生産”することにした。

 ファン・ハールは3人の専門家を招き、他分野のノウハウをフットボールに応用するという革新的な手法で選手育成に取りかかった。ホッケー界で成功を収めていた生理学者のヨス・ゲイゼルは、長距離走のトレーニングを減らして多方向への短距離スプリントを重視した。元バスケットボール選手でランニングコーチのラズロ・ヤンボルは、ランニングの技術やフットワーク、筋肉の使い方を指導して、試合ではコーチとしてベンチに座った。そして最もユニークな練習法をチームに持ち込んだのは、レネ・ヴォームハウトだった。

 アムステルダムの静かな一角にある酒場。午後のエスプレッソを楽しむ人々とは離れた位置に座り、ノートパソコンのキーボードをたたく、がっしりとした体格にスキンヘッドの風貌の男――彼こそが、ファン・ハールに誘われた3人目のエキスパートだ。

 運動強度とコンディショニングのコーチングを専門とするヴォームハウトは、アムステルダム・アドミラルズというアメフトのチームを経てアヤックスにやってきた(2012年までコーチを務め、現在はオランダ代表のスタッフとして働いている)。テーブルに置かれたPCの画面には、古い映像が流れていた。アヤックスが1995年に欧州王者に返り咲くより何カ月も前の映像だという。

 画面の中では、赤と白のシャツに紺のショーツ、ナイキの黒いスニーカーで統一された選手たちがそろってスキップしている。ある映像では、若い頃のエドヴィン・ファン・デル・サールが横にジャンプしながら並べられた5つの箱を跳び越えていく。30秒ほど経ったあと、白いTシャツに紺のショーツを着たヴォームハウトが現れ、ユーロビートの音楽に乗せてエアロビのようなダンスを指導し始めた。

 フランク・ライカールトやデ・ブール兄弟といった豪華な顔ぶれが一斉にステップを踏み始め、伸ばした手の先を反対側の足で蹴る動作を繰り返す。続けてその場で回転すると、リズムに合わせて手をたたいた。最後は、ジャンプしてヘディングするような動きを反復。選手たちは歓声を上げながらハイタッチでレッスンを締めくくった。

「私は数多くのアスリートを見てきた」とヴォームハウトは口を開いた。「独自のトレーニングをすればフィジカルで他のチームと差をつけられるのではと考えた。そこで“フットボール・エアロビクス”なるものを編み出したんだ。このトレーニングは4年ほど続けた」

 このダンスレッスンは選手にも好評だったようだ。「あれはかなり楽しかった」とは、ロナルド・デ・ブールの言葉だ。「あのエクササイズのおかげで、我々は柔軟性と素早い足運びを磨くことができた。反応速度も増して、バランスも良くなったと思う。ちょうど取り組んでいた技術練習とうまくマッチしていた」

 ヴォームハウトは、他の競技を経験している選手のほうが高い運動能力を持っていることに気づいた。「幼い頃に複数のスポーツを経験していたリトマネンはボディバランスが素晴らしかった。彼は14歳のとき、アイスホッケーの道に進むか、フットボール選手になるか決断を迫られたと言っていたよ。だから若い選手にはいろいろなスポーツに触れることを奨励したし、フットボールでは見せない動きを練習に取り入れた」

 トレーニングの効果を調べるために選手たちには心拍数計をつけ、体脂肪も頻繁にチェックしたという。アヤックスは、「持久力こそが一流選手の最大の条件だ」と考えられていた時代に、本格的にスポーツサイエンスと向き合い始めた。

“マニュアル”を理解できない者に居場所はない

 ファン・ハールは運動能力を高める育成論にとどまらず、マニュアルを読ませるように細かい戦術論を教え込んだ。彼にとって、選手はいち個人ではなく集合体だ。彼らはそれぞれの任務をこなすことで、個々の欲求を抑えてチームの利益に貢献する必要がある。「フットボールはチームスポーツであり、選手たちは互いにチームメートだ」。当時ファン・ハールはこう説いていた。「自分の仕事を遂行しない選手がいれば、仲間が苦しむことになる。だから全員が全力で義務を果たすべきだ。そのために規律がある」

 その“義務”というのはポジションによって変わる。1人がボールを受けるために下がってくれば、他の選手が相手のディフェンスラインの裏へと走る。両ウイングがディフェンスラインからロングパスを引き出すときには、MFは常にウインガーより低い位置を維持しておかなければならない(サイドでの突破が困難な場合、素早く逆サイドに展開するためだ)。GKには足元の技術が求められ、正確なフィードで攻撃の起点になる。チーム全体でパターン化された連動性のある動きが「4−3−3」、あるいは「3−4−3」の布陣の中で目まぐるしく繰り返される。

 ファン・ハールは選手たちに自分の指示を一言一句違わず守らせるため、舞台のリハーサルのように練習と同じ動きを反復させた。「味方の右足にパスをする練習を何度も何度も繰り返したよ」とロナルド・デ・ブールは振り返る。「可能な限り速いスピードでパスするんだ。まるでそういう競技なのかと思うくらいにね。それから30メートル以上のロングパスも繰り返し練習した。そうすることで素早くサイドチェンジできるようになる。習得には3カ月くらいかかったかな。他の練習も覚えてるよ。6対3のミニゲームだと、6人のチームはタッチ数が2回までに制限されていた。そういった練習を徹底して繰り返しているうちに、我々のポジショナルプレーは飛躍的に上達していた。新加入選手が我々の練習を初めて目にしたときは呆気に取られていたよ(笑)」

 ファン・ハールの“マニュアル”を理解できない者に居場所はなかった。89−90シーズンにオランダ年間最優秀選手に選ばれたMFヤン・ボウタースでさえ、若手のヴィム・ヨンクに定位置を奪われてバイエルンへと放出された。個人技でファンを沸かせたブライアン・ロイも、「フットボールIQが低い」というファン・ハールの判断によって、1992年にイタリアのフォッジャに売却された。ファン・ハールはロイに対してこうコメントしている。「もうロイのことは信頼していない。個別練習などすべての手を尽くしたがうまくいかなかった。彼はチームのために走ることはできるが、チームのために考えることができない。これ以上、彼を成長させるのは不可能だ」

 ファン・ハールは理想を追い求めることに執着した。就任1年目の91−92シーズンは、開幕16試合で勝ち点わずか「20」というスロースタートを切る。それでも自分のやり方を貫くと、最終的には優勝したPSVを3ポイント差まで追いつめていた。さらにUEFAカップでは決勝戦まで勝ち上がり、アウェーゴール差でトリノを下して栄冠を手にした。

 しかし、この成功は代償を伴った。セリエAの金満クラブが次々と主力選手を引き抜き、それから数年間でデニス・ベルカンプとヴィム・ヨンクはインテルに、ヨン・ファント・シップとマルシアーノ・フィンクはジェノアに、ミケル・クレークはパドヴァに去っていった。

若手とベテランの間で起こった化学反応が大きなカギに

 ファン・ハールは毎シーズン、チームを作り変えた。メンバーを大きく入れ替えて臨んだ92−93シーズンは、KNVBカップ決勝でヘーレンフェーンを6−2と一蹴してタイトルを獲得したものの、連覇を狙ったUEFAカップでは準々決勝でフランスのオセールに敗戦。エールディヴィジでも3位に甘んじた。それでも、残された若手選手たちは3シーズンかけて“ファン・ハール教育”を学び、偉大なチームへと変身しつつあった。

 見た目こそ高校生と変わらない若手たちも、フットボールに関してはプロフェッショナルだった。ある日の練習で、ロナルド・デ・ブールはバスケットボールで使われる“ピック”という作戦を提案した。いわゆる“スクリーン”で、CKを蹴る瞬間に、相手マーカーをブロックして味方をフリーにさせるという戦法だ。ロナルド・デ・ブールはボックス内を横切るように走って相手をブロックしてみせた。これに感心した指揮官は、すぐに戦術に取り入れたという。選手の意見に耳を傾けることで、ファン・ハールはチームの創造性を伸ばそうとしていた。

 翌シーズン、アヤックスは3年ぶりのリーグ優勝を果たす。だが、ファン・ハールの改革が本当の意味で実りをもたらしたのは94−95シーズンのことだ。2年目を迎えたヌワンコ・カヌとフィニディ・ジョージがパズルのラストピースとなり、エールディヴィジを無敗で連覇した。

 彼らはCLの舞台でも勢力図を書き換え始めた。グループステージでは前シーズン覇者のミランにホームで2−0の勝利を収めると、その2カ月後にはサン・シーロでも同じスコアで勝利した。1度目の対戦のあと、若い選手たちはユニフォームを交換するためにミランの控え室の前に列をなした。ロナルド・デ・ブールもその一人だ。「ルート・フリットがミランの控え室に招いてくれた。我々は子供みたいにはしゃいだよ。でも、2度目の対戦のあと、ユニフォームの交換を頼む者は一人もいなかった」

 フランク・デ・ブールは、それが転機だったと振り返る。「若手とベテランの間で素晴らしい化学反応が起きた。すべてがしっくりきたよ。『俺たちはあのミランを倒したんだから、もう何も怖くない』。そう思えるようになったんだ」

 アヤックスの強みは、チームとしての完成度の高さだけでなく、選手の万能性にあった。ファン・ハールがその献身性から「ピットブル」と名づけたダーヴィッツは、『FourFourTwo』にこう語ったことがある。「デビュー当初、私は左ウイングかセカンドストライカーとしてプレーしていた。中央へのコンバートはファン・ハールのアイデアだ。監督は私にセントラルMFの才能を見出した。マルク・オーフェルマルスが左サイドで活躍し始めていたというのもあるだろう。自分にとっても、左ウイングのときよりボールに触れる機会が格段に増えたし、やりやすかった」

 グループステージを無敗で駆け抜けたアヤックスは、準々決勝でハイデュク・スプリトを2戦合計3−0、準決勝ではバイエルンを大差で退けてファイナルまで勝ち上がり、ウィーンでシーズン3度目となるミラン戦を迎えることになる。

 ファン・ハールは、ミランがパリ・サンジェルマンを下して決勝に進出したことを喜んだという。「ミランは我々と同じ、勝利を目指すチームだが、PSGは違う。負けないフットボールをしてくる相手はやりにくいんだ」

 攻撃的な姿勢こそ同じでも、ピッチ外の風格はこれ以上ないほど対照的だった。決戦の前夜、ウィーン国際空港では、アヤックスの若い選手たちが照れくさそうにメディアの前に姿を見せた。一方、スターぞろいのミランは美しいガールフレンドを連れて到着ロビーを闊歩した。

 当時ミランを率いていたファビオ・カペッロは、グループステージでの2度の敗戦から狡猾な戦術を用意していた。中盤のダイヤモンドの底に置いたデサイーにリトマネンをマンマークさせ、FWのダニエレ・マッサーロは、DFのフランク・デ・ブールではなくミハエル・ライツィハーにボールを持たせるようにプレスをかけた。前半の45分間はミランの戦術が見事にはまり、アヤックスサポーターにとっては見るに堪えない展開が続いた。

 スコアレスで迎えたハーフタイム、「もっとボールの扱いに気をつけて、素早くパスを回せ!」と真っ先に口を開いたのは、ミランで5シーズンを過ごし、古巣へ戻ってきたライカールトだった。そこにダニー・ブリントやセードルフ、ロナルド・デ・ブールも加わり、口論はヒートアップした。

 ファン・ハールはそのとき、少しだけ戦術を変えた。ライカールトの位置を5メートルほど下げて、彼が自由にパスを繰り出せるようにすると、試合の流れは徐々にアヤックスに傾き始める。さらに53分、セードルフに代えてカヌを投入。スピードを警戒したフランコ・バレージは、ミランの最終ラインを自陣ボックス付近まで下げざるを得なかった。

 これでアヤックスが攻勢を強めると、ファン・ハールは70分に(リドヴィナの予言を知っていたのか)リトマネンに代えてクライファートを投入する。15分後、流れるような攻撃から左サイドのオーフェルマルスがパスをつなぎ、敵陣ボックスまで攻め上がっていたライカールトにボールが渡った。ライカールトのパスを受けたクライファートはワンタッチでバレージの前に入り、左足トウキックでセバスティアーノ・ロッシの守るゴールに決勝弾を突き刺す――。こうしてアヤックスは、クライフ時代の1973年以来となる欧州制覇を成し遂げた。

ビッグクラブの引き抜きにより“アヤックス・バブル”は終幕

 輝かしい成功により、アヤックスの選手たちは一躍ヨーロッパの注目の的となった。18歳のクライファートは、“国民の恋人”として国内メディアに取り上げられた。だが3年前と同じように、欧州のビッグクラブが主力選手を引き抜くのは時間の問題だった。

 とりわけ注目を浴びたのはリトマネンだ。しかし彼が残留を明言すると、大半の選手が残留を決断した(サンプドリアへの移籍を選んだセードルフを除いて)。

 95−96シーズン、アヤックスは欧州スーパーカップを制し、幸先のいいスタートを切った。アヤックスの黄金世代となった彼らは、この先何年もヨーロッパを支配できると感じていた。

 しかし、舞台裏では少しずつ綻びが生じ始めていた。欧州の頂点に立った4カ月後、クライファートは死者を出す交通事故を起こし、その罪悪感にさいなまれるようになった。フィニディ・ジョージはナイジェリアにいる兄弟が銃殺され、悲嘆に暮れた。

 その後、グレミオを倒して世界一の称号を手に入れたインターコンチネンタルカップでは、オーフェルマルスが大ケガを負った。それでも、限られた戦力でリーグ3連覇を達成し、CLでも再びファイナル進出を果たす。そして――ユヴェントス相手に過去2年間で最悪のパフォーマンスを見せて、PK戦の末に敗れ去った。

 黄金時代は唐突に終わりを告げた。

 1995年に導入されたボスマン判決(選手との契約満了後、クラブ側が所有権を主張できない。さらにEU加盟国の国籍を所持している選手には外国人枠が適用されない)によって選手は自由に移籍できるようになり、アヤックスは解体された。ダーヴィッツとライツィハーはフリーでミランへ移籍することを発表し、フィニディ・ジョージはベティスに、カヌはインテルに売却された。残されたメンバーで構成されたチームは96−97シーズンのエールディヴィジで4位に甘んじ、シーズン終了後にはクライファートがフリーでバルセロナへ渡った。そして、ファン・ハールも自ら幕を下ろすように、バルセロナの誘いに応じた。

 若いアヤックスが築き上げた黄金期は、フットボール史の1ページに刻まれている。決して長くは続かなかった悲運のチーム。だからこそ、二度と目にすることのできない一瞬の輝きは、美しい記憶のまま語り継がれるのだろう。

※この記事はサッカーキング No.003(2019年6月号)に掲載された記事を再編集したものです。

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