マフレズを管理人と勘違いした(笑)…バンジャマン・メンディの“らしさ”全開トーク【雑誌SKアーカイブ】

マフレズを管理人と勘違いした(笑)…バンジャマン・メンディの“らしさ”全開トーク【雑誌SKアーカイブ】

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[サッカーキング No.011(2020年3月号)掲載]
ヤワなタックルなんて意に介さず、ゴリゴリとピッチサイドを駆け上がる。
頭の固い常識人の苦言もどこ吹く風と、破天荒な“つぶやき”を発信し続ける。
アンストッパブル―。彼ほどこの言葉がふさしいフットボーラーはいない。

インタビュー・文=ジョー・ブリューウィン
翻訳=加藤富美
写真=ゲッティ イメージズ

 マンチェスター・シティのアカデミー練習場を訪れる。受付を済ませると、腰を下ろす間もなく取材相手がやって来た。

「君たちか!」。バンジャマン・メンディの登場だ。彼に“ウォームアップ”は必要ないようだ。我々のリクエストに応えてファインダーに向かって雄叫びを上げると、PCに映し出された写真を見てニヤリと笑う。彼はそのまま自身のフォト・セッションを仕切り始めた。“プレミアリーグ最優秀コメディアン”の取材は、どうやらうまくいきそうだ。

 もちろん、彼はただのコメディアンではない。マルセロ・ビエルサ、レオナルド・ジャルディム、そしてジョゼップ・グアルディオラ。現代フットボールの世界で最も評価される監督たちの指導を受けてきた。2013年から3シーズンにわたってマルセイユでプレーし、その後のモナコで才能に磨きをかけ、16−17シーズンにはパリ・サンジェルマンの一強体制に終止符を打つリーグ・アン制覇に貢献した。チャンピオンズリーグの4強進出にも大きな役割を果たした彼は、2017年にDFとしては史上最高額となる移籍金でマンチェスター・シティに加入した。忘れてはいけないことがもう一つある。2018年にはワールドカップを制した。

 伝えるべきことはまだまだある。彼はインタビューを通して、さまざまな物語を聞かせてくれた。
マフレズのことを管理人と勘違いしたんだ(笑)

 7歳のときの話だ。メンディは街灯をコーンに見立て、ジグザグにドリブルしながらボールを運んでいた。“自分の世界”に入り込んでいた彼が公道に差し掛かる頃、母親が叫んだ。「気をつけて!」。その声は届かず、メンディはボールを蹴りながら車道を横切る……ボールがあらぬ方向に飛び、彼は道路にたたきつけられた。車が徐行中だったことは幸いだった。「母親は真っ青な顔で『大丈夫!? だから言ったでしょ!』と叫んでいたよ」。彼は18年前の事故をそう振り返ると、微笑んだ。「練習に向かう途中だったんだ。休みたくなくて『大丈夫』と言ったけど、足と背中が痛かった。母親は病院に連れていくと言い張ったが、断固拒否した。だって、怖いだろ(笑)」

 パリ中心部から15キロ南にあるパレゾーという自治体で育った彼は、明けても暮れてもストリートでボールを蹴っていた。洗練された住宅が立ち並ぶ、趣のある地域だ。彼はその後、ル・アーヴルのアカデミーに通うことになった。ポール・ポグバ、スティーヴ・マンダンダ、ラサナ・ディアラ、ディミトリ・パイェ、そしてフェルランド・メンディを輩出した名門だ。当初はストライカーを目指していたが、13歳のときに「能力が足りない」という評価を受けた。ショックはあったが、そのことは彼自身も理解していた。

「ストライカーを目指していた頃は、下がって受けて前に運んで、ゴールを決めようとしていた。中盤が苦労していると感じたときには、常に下がってサポートした。するとある日、監督にこう言われたんだ。『左サイドの中盤をやってみろ』ってね。『イヤです! 退屈だから』と答えたけど、ひとまず従ってみることにした。すると、監督が『左のサイドバックもやってみろ』と言うんだ。冗談じゃないよ、と思ったけど、監督の目は正しかった。結局、そのポジションに定着したんだ」

 ル・アーヴルにいた頃、メンディはある選手と遭遇する。3歳年上の彼のキャリアは、メンディよりはるかに格下と言えるものだった。彼の名はリヤド・マフレズ。痩せっぽちでさえない風貌だった。

「初日から遅刻してきたんだ」。マフレズが栄光のスタートを切った日について、メンディはそう語った。「本当に痩せていた。選手の体には見えなかったから、管理人かな?って思ったくらいだ(笑)。監督は遅れてきた彼に、『ピッチを2周してこい』と言った。僕たちはストレッチをしていたんだけど、ものすごいスピードで走る彼を見て笑ったよ。でも、翌日のボールを使った練習で驚いた。とんでもないテクニックだったから」

 11−12シーズン、2人はトップチームに昇格する。リーグ・ドゥの試合で先に定位置を得たのは17歳のメンディだった。記念すべきデビュー戦を迎えた彼は、7歳のときと同じように“自分の世界”に入り込んでいた。「スパイクを忘れたんだ」。そう言ってメンディは爆笑した。「控えGKのブライス・サンバ(現ノッティンガム・フォレスト)に借りたよ。もし正GKがケガしていたら大変だったね(笑)」

 ル・アーヴルで結果を残した彼のもとには、多くのオファーが届いた。当時プレミアリーグに所属していたサンダーランドも彼の獲得を希望していたが、メンディが選んだのはマルセイユだった。

「マルセイユを選んだのは、スタッド・ヴェロドロームを訪れたときの感動が理由だ。スタジアム全体に活気が満ちていた。ここでプレーしたいと思ったんだ」

 マルセイユでの3年間は波乱万丈だった。監督は4度替わり、多くのスター選手が巣立ち、順位は6位、4位、13位と下降線をたどった。だが、チームの学習曲線は上向いた。14−15シーズンにチームを4位に導いた名将ビエルサのもとで。

「僕は若かった。そして、マルセイユが大好きだった。財政的に苦しい状況だったけど、リーグではいい位置につけていたし、会場はいつも満員だ。毎日、サポーターのために頑張ろうという気持ちになった。頻繁に監督が替わってうまくいかないときもあったけど、それも経験だ。ピッチで懸命にプレーすれば、サポートしてくれる。たとえスター選手であっても、戦わなければそれまでだ」

 メンディの才能はビエルサのもとで完全に花開いた。彼はその指導を「ユニークだった」と表現する。

「ビデオ! ミーティング!ってよく叫んでいたよ(笑)。フランス語を覚えることもなく、スペイン語で押し通していたね。試合だけに集中したかったんだと思う。最初の親善試合の前にコーチやスタッフが冗談を言って笑っていたら、監督が腹を立てて『来なくていい』って怒鳴ったんだ。結局、スタジアムに向かったのは、監督と選手とメディカルスタッフだけだった。みんな神妙な顔をしながら、心の中で『イカれてる』と思っていた。でもそれから大きな問題はなかった。素晴らしい人格者で、ファンタスティックな指導者だった。多くを学んだよ」

 メンディはさらに続ける。「ある日、ミーティングで居眠りをしてしまったんだ。飛び起きた僕に、監督はこう言った。『寝ても構わない。いつか話を聞きたくなるときまではね。聞こうとして聞けば、すべてを理解できるはずだ』。それからはよく話を聞いて、学んで、質問をした。その経験が僕の血となり肉となった」

 15−16シーズンの初戦でマルセイユはカーンに敗れ、ビエルサは電撃的に辞任した。後任はミチェルに決まったが、その後、クラブは13位と低迷する。フロントはピエール・ジニャック、パイェ、フロリアン・トヴァンといった主力選手を放出した。そして16−17シーズン、彼はモナコの選手となった。
イスに座る僕の手を握り、頭にキスをしてくれた

 ジャルディム監督のもとで、モナコの選手たちは躍動した。PSGの牙城を崩してリーグ・アンの覇者となり、CLではベスト4に進出した。メンディはつぶやく。「最高だった」

「マンチェスター・シティに来てつくづく思うんだ。ここの施設や設備には非の打ちどころがない。モナコは違った。ドレッシングルームは小さいし、食堂はプレハブ造りだ。でも、全く気にならなかった。チームメートは仲が良く、食事のときはいつも笑いが満ちていた。いろんな国の選手がいたけど、団結していたね」

 CLの決勝トーナメント1回戦ではマンチェスター・シティと戦い、2戦合計で6−6。アウェーゴールで上回って勝ち抜けた。フットボール史に残る快挙だ。

「シティから声がかかったのは、間違いなくあれが理由だね」とメンディは笑う。「エティハドでの1stレグは3−5で敗れたけど、『いけるぞ!』っていう気持ちだったよ。シティの2点目は、GKダニエル・スバシッチのファンブルが原因だ。正直に言って腹が立ったよ(笑)。でも2戦目の前に、『悔いのない試合をしよう』と誓い合った。その気持ちは見る人に伝わったと思うよ。結局3−1で勝った。スバシッチは最高の仕事をしたよ(笑)」

 シーズンが終わると、シティは別の形で勝負に出た。「勝てないなら、連れてこい」。メンディとベルナルド・シウヴァには、合計9500万ポンド(約133億円)の値がついた。シティへの加入が決まり、携帯のチャットアプリでグアルディオラと会話をしたメンディは、プレシーズンのツアーに参加した。

「イスに座っていたら、グアルディオラが来て僕の手を握り、頭にキスをしてくれたんだ。全くもって心の準備ができていなかったよ(笑)」

 愛情たっぷりの出迎えを経て、指揮官との絆は深まっていく。もちろん、“愛のムチ”もあったが。ケガで離脱中にSNSでハメを外した際には、こんな言葉のムチが飛んだ。「時折、殺したくなる」。メンディの返し方はツボを得ていた。「おっと(+絵文字)」。こういう場合はシンプルに行くに限る。

「『いい加減落ち着け』と言われたよ」。メンディはこの一件をそう振り返る。「『SNSを使うのはいい。でも、やりすぎはいけない』ってね。『間違い探しが趣味の人間もいるし、些細な発言が大事になることもある』と諭された。携帯を持つと、つい手が動いちゃうんだよ(笑)。まあ、最近はちょっと考えるようになったね」

 どうやらこの話は居心地が悪いようだ。メンディは話題を変えた。「ペップはすごい人だ。戦術は言うまでもないが、人心掌握術が素晴らしい。指導者でありながら、ときには友人になる。飲み友達じゃなく、腹を割って話せる一緒にいて心地いい友人だ。話しかけにくい指導者もいるが、ペップは全く違う。それに、彼がフットボールに捧げる愛の深さを知ると、彼のために戦いたくなるんだ。先発する選手だけじゃなく、チームの全員が自分のすべきことを理解している」
レアルのような強豪と戦う これこそCLの醍醐味だ!

 実際のところ、メンディは世間の評価以上に地に足のついた男だ。このインタビューでも、幅広い話題について我々の知りたいことを詳細に話してくれた。ケガの話も例外ではない。彼はシティと契約して以降、2度の長期離脱を余儀なくされている。2017年9月には、クリスタル・パレス戦で前十字靭帯を負傷した。離脱は7カ月に及び、そのシーズンのリーグ戦出場数は7にとどまった。

「最初に考えたのは、W杯のことだ。復帰のために何でもした。みんなが無理だと言ったけど、結果的にメンバーに選ばれたんだ。入院中はベッドの上でいつも足を動かしていた。いつまでこれが続くのかって絶望的な気持ちにもなった。でも、戦うしかなかった。フットボールはいいことばかりじゃない。ケガで選手生命を絶たれることもある。それでもやるしかないんだ」

 しかし、復帰した彼を再び悲劇が襲う。2018年11月に負ったケガは、前回以上に複雑だった。

「マンチェスター・ユナイテッド戦だった。ボールの方向に動いたとき、何かが裂ける音がしたんだ。最初は軽傷だと思った。前半9分にそれは起きたけど、最後までプレーした。試合後、代表戦のためにマフレズと飛行機に乗ると、ヒザがありえないくらい腫れていたんだ。前十字をやったときとは感覚が違った。翌日代表の医者の診断を受けると、半月板に問題あることが分かった。復帰まで4カ月かかると言われたよ」

 つらい思い出は続く。「最初のときよりも気が滅入ったね。それに、どれだけ複雑なケガか理解できていなかった。あまり痛みのない日もあれば、激痛の日もあった。いつも氷で冷やしていたよ。接触もしていないのに、なぜケガをしたのかも分からなかった。結局、完治まで5カ月かかった。監督には、4月の段階で『もう今シーズンは試合に出られない。バルセロナでリハビリをして、休暇は取らずに次のシーズンに備える』と言った」

 その間、メンディはある“事件”を起こしている。2019年1月、シティがリヴァプールに勝利してリーグ連覇に大きく近づいたときのことだ。2−1で試合終了のホイッスルが吹かれると、メンディは大喜びでピッチに向かって走った。警備員はそれがメンディと気づかず、あやうく彼を取り押さえるところだった。その映像は、世界中に拡散された。

「僕をファンだと思ったんだろうね。警備が彼の仕事だから文句は言わないよ! でも、ケガをしていたら取っ組み合いになっていたかもしれない(笑)」

 今シーズンのリヴァプールを見ると、リーグ3連覇は少し厳しそうだ。では、CLはどうか。シティは2016年以降、準々決勝より先に進んでいない。今シーズンの決勝トーナメント1回戦では、レアル・マドリードとの対戦が待っている。グアルディオラは2011年を最後に、CLのトロフィーを掲げていない。重圧は大きい。だが、メンディはひるまない。

「レアルのような強豪と対戦するためにCLを戦うんだよ。最多優勝を誇るチームとね。自信はある。『どうやったら勝てるんだ?』なんて誰も思っちゃいない。ただスタジアムに行って、監督を信じて、自分たちのフットボールをするだけだ。僕たちが愛するフットボールをね。『CLで優勝できなかったら、シティはおしまいだ』と言う人間もいる。でも、フットボールはそんなもんじゃない。去年のことを思い出してほしい。トッテナムに勝てばすべてが変わっていたはずだ。優勝と敗退は紙一重だ。プレッシャーはないし、外野は外野だ。何とでも言ってくれ」

 そう、世間はやかましい。しかし、メンディにとっては関係のないことだ。ドリブルで街灯の間を縫っていた少年時代から、彼は少しも変わっていない。何かが飛んできた? 関係ない。車がこっちに向かってる? 関係ない。バンジャマン・メンディは止まらない。

※この記事はサッカーキング No.011(2020年3月号)に掲載された記事を再編集したものです。