【インタビュー】日本で暮らす元セリエAプレーヤー マヌエル・ベッレーリが語る半生 前編

【インタビュー】日本で暮らす元セリエAプレーヤー マヌエル・ベッレーリが語る半生 前編

マヌエル・ベッレーリ [写真]=佐藤徳和

 東京にかつてセリエAで活躍したイタリア人の元選手がいることをご存知だろうか。マヌエル・ベッレーリ。エンポリやウディネーゼ、そしてラツィオといった一流クラブでプレーした経験を持ち、現在はACミランアカデミー東京のテクニカルディレクターを務めている。

 マヌエルがプロキャリアをスタートした1993年は、イタリアがまだ世界最高のリーグとして世界中からの注目を一身に浴びていた時代だ。そんな厳しかった時代に、マヌエルがどのようにプロとしてのキャリアを歩み、どういった選手たちに挑み、そして、監督たちとの関係を築いたのか――。セリエAを愛する人たち、プロを目指す子供たちにとって必見のインタビューだ。

取材・文・写真=佐藤徳和/Norikazu SATO
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―――厳しい状況にありますが、体調はどうですか?
マヌエル・ベッレーリ(以下、マヌエル)  とてもいいよ。幸い、多くの時間を家で過ごせているよ。最近、買った車で移動できるから、電車に乗ることは避けられている。

―――マヌエルが生まれたロンバルディーア州では、多くの人が感染しています。家族や友人はどうしていますか? 選手や監督たちとは連絡を取りましたか?
マヌエル  家族は今、元気だけど、両親と兄弟が新型コロナウイルスに感染してしまったんだ。でも、今は良くなっているよ。ウディネーゼでプレーしていた時の監督、ルチャーノ・スパッレッティとは連絡をとったよ。彼も元気だよ。

―――日本も非常事態宣言を発令しました。しかし、イタリアのような厳格なものではありません。イタリアと日本の非常事態宣言をそれぞれどのように思いますか?
マヌエル  イタリアのは完全なロックダウン。とても厳しいものだ。なぜなら、とてもとても多くの死者が出ているからだ(注:イタリアは4月21日までに死者が2万4648人)。日本、東京の非常事態宣言は厳しくはないものだよね。外出もできるし。日本は多くの人たちがマスクをしている。これが感染しない助けになっている。今の状況が早く終わることを願っているよ。

―――今もセリエAはいつ再開できるか分かりません。バレーボールのセリエAは、今季が打ち切られ、優勝チームもないまま終わりました。いつ、セリエAは再開できると考えていますか?
マヌエル  6月には再開できると思っているよ。これまでとは違ったやり方でトレーニングをしてね。治療方法が見つかるまで、この新型コロナウイルスは多くのことを変えるだろうね。

―――それでは本題に入ります。初めてボールに触れ、サッカーを始めたのはいつですか?
マヌエル  3歳のときにボールで遊び始めたんだ。その日から、ボールで遊ぶことをやめることはなかったよ。 

―――最初は、どこのポジションでプレーしていましたか?
マヌエル  最初は、中盤の右サイドでプレーしていたよ。ピッチの右サイドでね。とても足が速かったから。

―――小さい頃、影響を受けた人はいますか? どのチームを応援し、アイドルは誰でしたか?
マヌエル  父がサッカーが大好きな人でね。サッカーを始めた当初は、父がとても手助けしてくれたよ。ずっとミランを応援していてね。それで今、『ACミランアカデミー東京』でテクニカル ディレクターを務めているんだ。私のアイドルはロベルト・カルロス。フィジカルも強く、テクニックも素晴らしかった。

―――子供の頃から、注目を浴びていましたか?
マヌエル  そうだね。最初の監督、トラッコナッリャが両親に『将来、とても素晴らしい選手になる』って言ってくれてたよ。

―――幼い頃はどういう性格でしたか?
マヌエル  両親によってとてもよく教育されたよ。何かをしたい、成し遂げなければならない時はとても頑固だったよ。この性格が、サッカーにおいてキャリアを築く上で助けになった。

―――ルメッツァーネ(注:1993年は4部リーグ相当のセリエC2に所属)に加入するまではどこでプレーしていたのですか?
マヌエル  小さなクラブ、ヴィッラ・カルチーナでプレーしていたよ。

―――日本では13歳から17歳の少年は、一週間に6日、トレーニグをしています。その年代の頃、週に何回トレーニングをしていましたか?
マヌエル  週に4回トレーニングをし、土曜日が試合だった。

―――サッカーをやめたいと思うような難しい時期はありましたか? もし、そういった時期があったなら、どうやって克服しましたか?
マヌエル  14歳のときに、サッカーをやめたいと思ったことがあったね。トレーニングがとても厳しくて。家族が私を助けてくれて、それを克服できたんだ。

―――何歳の時にプロとしてプレーできると思いましたか?
マヌエル  ずっとプロとしてやっていけると確信していた。なぜなら、サッカーに対して常に情熱を抱いていたから。16歳でプロになったんだ。

―――その16歳でセリエC2のカテゴリーですでにプレーしています。どのような印象でしたか? プリマヴェーラ(ユースリーグ)でプレーしながら、トップチームの試合にも出ていたのですか?
マヌエル  最初の数試合は、とても興奮したよ。その後は、いつも出場できるようになってね。もう興奮はせず、とてもよくプレーできるようになった。最初はプリマヴェーラでプレーしながらの出場で、それからトップチームに移ったんだ。

―――勉強とトレーニングの両立はできましたか?
マヌエル  できたね。測量技師(家の設計)の資格を持つことができたよ。午前中は学校に行って授業を受け、午後はトレーニングだった。

―――こういった青年期は、たくさんの誘惑があります。ディスコに行ったり、彼女ができたりといったように。たくさんの犠牲を払ったことだと思います。どのようにそういった誘惑に打ち勝ちましたか?
マヌエル  誘惑にかられてしまったことは一度もなかったね。自分はサッカーをすることを愛していたから。唯一、頭に抱いていたことは『プロサッカー選手になること』だった。サッカーをする時は幸せだった。

―――ルメッツァーネでプレーしていた1996-97シーズン(セリエC2)は、現ラツィオの指揮官、シモーネ・インザーギと一緒にプレーしています。どんな選手だったでしょうか?
マヌエル  シモーネは、とても優れた選手で、得点能力に長けていた。監督としても、優秀だね。とても賢く、経験も備えているからトップクラブにふさわしい監督になるだろう。ラツィオで一緒にプレーしていた時から(注:2005-06シーズンから2年間と2008-09シーズンの後半)、すでに素晴らしい監督になるだろうということが見て取れた。全ての選手をよく知っていたし、どのように蹴るのか、どちらの足で良いキックをするのか、どのようにドリブルするのかという特徴を頭に入れていた。

―――6年間、ルメッツァーネでは106試合に出場しています。そして、1999年にエンポリ(セリエB)へ移籍しました。もっと前により強いチームに移籍できる可能性はありませんでしたか? この時期、ルメッツァーネはタイトル争いをしていましたが。
マヌエル  ルメッツァーネは、優勝争いをしていて、セリエBに昇格する可能性があったから、それでずっと留まっていたんだ。サンプドリアに移籍できる可能性もあったけれど、エンポリに行くことを決意したんだ。

―――1999年に、ついにエンポリに移籍します。どのように移籍を知りましたか? ほかにあなたを獲得に動いていたクラブはありましたか?
マヌエル  ある晩、代理人から連絡があってエンポリに移籍できると知ったんだ。それで代理人と、エンポリのスポーツディレクターと一緒に食事をした。サインをして、とても嬉しかった。エンポリと契約する前は、アタランタ、サンプドリア、ヴェローナからオファーがあった。しかし、エンポリはとても組織されたクラブで、当時の自分のような若い選手をプレーさせていたから、エンポリと契約することに決めたんだ。

続く

マヌエル・ベッレーリ

キャリア
1993-1999年 ルメッツァーネ1(セリエC1, C2)
1999-2004年 エンポリ(セリエB, A)
2004-2005年 ウディネーゼ(セリエA)
2005-2007年 ラツィオ(セリエA)
2007-2008年 アタランタ(セリエA)
2008-2009年 ボローニャ(セリエA)
2009-2010年 レッチェ(セリエA)
2011-2013年 SPAL(セリエC1)
2014年〜現在 ACミランアカデミー東京テクニカルディレクター

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