「20代前半でのクビも仕方ないと…」悩める平川忠亮を浦和のバンディエラに押し上げた存在

「20代前半でのクビも仕方ないと…」悩める平川忠亮を浦和のバンディエラに押し上げた存在

18年シーズン限りで現役を引退した平川。今年7月22日に引退試合を開催する。(C)SOCCER DIGEST



「平川、石川、羽生の1年生は別格の存在で、ちょっとモノが違いました。全国には推薦枠で筑波大を志望する優秀な高校生がたくさんいましたが、その中でも彼らは飛び抜けた素材でしたね」

 平川忠亮や石川竜也、羽生直剛が筑波大学に進学した1998年、蹴球部のヘッドコーチだった菊原伸郎・埼玉大学准教授はこう回想する。

 1年生から活躍した平川は、全日本大学選抜では主将としてチームを束ね、2001年のユニバーシアード北京大会優勝に寄与。複数のJリーグクラブから誘われ、02年に盟友・小野伸二も在籍した浦和レッズに加入した。私は「02年」というのが平川にとっては時機到来で、浦和を代表する選手に栄達できた要因のひとつだと思っている。ハンス・オフト監督が就任したからだ。

 彼は参謀のビム・ヤンセンコーチとともに、トップチームの強化と並行して人材の育成に力を注ぎ、才気煥発な若手を次々と登用。平川と同期の坪井慶介をはじめ、2つ下の鈴木啓太と山瀬功治、3つ年少の田中達也、4つ下の長谷部誠はいずれもオフト監督の指導によって一流選手へと歩み始めたのだ。

「先日の練習試合でたまたまアピールできましたが、それまでは20代前半でクビになっても仕方ないと思っていました」
 
 鹿児島県指宿市での強化合宿で、新人の平川を何度か取材したなか、この言葉はとても興味深く、後年思い返してみると驚きでもある。浦和に17年も在籍し、引退試合まで用意してもらった男が、加入1カ月の時点ではこんな不安に駆られていたのだから。

 その一方でプロフットボーラーとしての野心も忘れず、「山田さんに競争で勝って試合に出たい。右サイドにはこだわっているけど、チャンスを与えてもらえば違うポジションもこなせる選手になりたいですね」と当時、SBとしてもウイングバックとしても、不動の右サイドだった山田暢久とのレギュラー争いにも闘志をたぎらせた。

 浦和でのキャリアの大半、平川は打倒・山田に照準を合わせていた。
 

 02年4月30日、ナビスコカップ予選リーグ第2節の鹿島アントラーズ戦でプロデビュー。後半10分に山田に代わって右ウイングバックで出場し、29分には軽快な突破から2点目の起点となった。当人も「前を向き、縦を突く自分の持ち味を出せた」と喜んだ。

 Jリーグデビューは同年7月20日、第1ステージ第9節のコンサドーレ札幌戦で、後半28分に路木龍次と交代し左ウイングバックを担当。延長前半5分、トゥットに絶妙のスルーパスを配給した。Jリーグ初先発が同24日、左ウイングバックとしてフル出場した第10節の柏レイソル戦で、後半6分に左から山田に決定的な最終パスを預けている。

 平川は節目の試合では、必ず及第点以上のプレーを披露しオフト監督の信任を得た。指揮官は「平川はスピードばかりかとても賢い選手だ。第2ステージ半ば頃から私のやり方、チームの戦術をしっかり身に付けてくれた。まだまだ成長の余地がある」と褒めたものだ。

 日韓・ワールドカップの中断明けから左ウイングバックのレギュラーとなり、ナビスコカップ準優勝も経験。背番号が14に変わり、クラブ初タイトルを獲得した翌年のナビスコカップ決勝では、エメルソンに鋭い縦パスを通して2点目につなげた。
 
 ギド・ブッフバルト監督が就任した04年は、悔しさと喜びが交錯したシーズンではなかったか。

 DF陣に故障者が相次ぐとリーグ戦で5試合、ナビスコカップで2試合初体験のストッパーに指名された。「自分は上背がないから空中戦では身体をぶつけるしかない。90分のうち1分も気が抜けない」と言った。この起用には納得できなかったろうが、不慣れな役回りを忠実に粘り強くこなすのがこの人の真骨頂でもあった。

 第1ステージ第7節のサンフレッチェ広島戦は、右ウイングバックで先発。第10節までの4試合ながら、体調万全の山田から初めて右サイドのポジションを奪い、加入3年目で所期の目的を少しだけ果たした。

 03年のナビスコカップ、04年の第2ステージ、06年のリーグ、07年のAFCチャンピオンズリーグと、平川は浦和が初めて頂点に立った試合に必ず出場した。
 

 ミハイロ・ペトロビッチ監督が着任した12年からの3シーズン、右ウイングバックとして力強い上下動を繰り返し、良質でモダンな攻撃的サッカーを享受。平川は「この監督によって新しいサッカーに出会え、よりサッカーが好きになり、楽しくなった」と述懐している。

 対照的に平川より4歳上の山田は力の衰えを隠せず、同一クラブで史上初のJ1通算500試合出場を達成した13年に引退。山田はこの前年、「もっと若い頃にこの監督とやりたかった。パスと組織で崩すサッカーは一番楽しい、ヒラがうらやましいね」と、この人らしからぬ発言をした。平川には力勝負で勝てなくなったと感じていたのかもしれない。
 
 18年に引退した平川は、1年目に掲げた打倒・山田の目標についてどう整理したのだろうか。いずれにしても山田という存在が、平川を浦和のレジェンド、バンディエラに押し上げた一因であることは間違いない。

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 7月22日の引退試合に向けたオンライン会見では、とても重要なことを述べた。

「レッズでやってきたことの中で、失敗してもチャレンジし続けた先に栄光があることをこのチームで学んだ。未来を担う若い選手も参加するので、これからのレッズをどう良くしていくか、というメッセージを含めた引退試合になります」

取材・文●河野正(フリーライター)
 

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