新潟の一サッカー少年が故郷を離れて単身佐賀へ赴いた理由と、Jリーガーとして帰郷を選択するまでの紆余曲折
2021年09月27日 17時04分サッカーダイジェストWeb

J2新潟入りが内定した佐賀東の吉田。新潟出身の彼は、なぜ地元を離れる決断をしたのか。写真:安藤隆人
9月26日、佐賀東の3年生MF吉田陣平の来季からのアルビレックス新潟加入内定が発表された。吉田はボランチ、サイドハーフ、トップ下と中盤ならどこでもこなせるユーティリティープレーヤーで、特徴はなんと言ってもボールを取られないドリブルの精度とパスの判断力の高さにある。
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新潟で生まれ育った彼は小学校時代からドリブルを得意とし、繊細なボールタッチと前への推進力を駆使して、アタッカーとして活躍をした。中学に進むとパス中心のサッカーの中でボールを持つことから離すタイミングやパスの質を磨き上げ、高校ではこの2つを融合させて個で打開できて、かつパスでも崩せる選手に成長を遂げた。
この成長過程は周りの指導者の影響も大きいが、何より彼自身が成長に対して貪欲だったことが大きかった。小学校時代、彼はほぼ1年ごとにクラブを変えて、かつスクールにも通っていた。理由は「いろんな環境でサッカーをすることで、多くのことを学びたかった」と語るように、小学校時代から自分の足りないものに目を向けて、そのために具体的なアプローチができる選手だった。
高校進学時も「小学校時代から県外に出たかった」と、地元の帝京長岡高からも誘いを受けたが、小学校時代のスクールのコーチがいる佐賀東に自ら売り込んで、練習参加をした。同時に彼のもとには前橋育英とジュビロ磐田U-18からも誘いが届いており、最後までどれにするか悩んだが、最終的には「やっぱり僕の武器にドリブルを加えてくれたコーチの下でもう一度サッカーがしたかった」と佐賀東を選択。全く所縁のなかった佐賀県に単身でやってきた。
佐賀東はディフェンスラインからビルドアップをして、ピッチの幅を使いながらパスとドリブルを組み合わせたサッカーを標榜し続けている高校で、彼のスタイルとも合致をしていた。実際に蒲原晶昭監督は彼のサッカーセンスに可能性を見出して1年時から起用。当初はトップ下だったが、夏以降にボランチにコンバートすると、1年生ながら瞬く間にチームの攻守の要となった。
そして高1の1月に彼は突然、フランスに3週間のサッカー留学をした。これも彼の意思で、両親の協力もあって、自分で留学の仲介先を探し、蒲原監督の許可を得て、パリの4部に所属するクラブのU-19チームの練習に参加をしたのだった。
これも高1の選手権予選で敗れた時に、「自分に足りないものはメンタル的な部分。将来、プロを考えたら、自分を出せない選手は厳しいと感じたので、海外に飛び込んで逃げも隠れもできない環境で自分を鍛え直したかった」と、感じたことをすぐに行動に移したものであった。
県の新人戦の最中での留学を許した蒲原監督も凄いが、高1でこの決断と行動ができるだけでも彼の意志の強さと向上心が十分に伝わるだろう。
「フランスではもう『俺が、俺が』の世界で遠慮という言葉は存在しなかった。自分が心から求めていた環境がそこにあったので、3週間言葉が分からない分、ジェスチャーなどでコミュニケーションをとりながら、必死でサッカーに打ち込むことができました。プレー面でも向こうの選手は足が長かったり、フィジカルレベルが高くて、自分がボールをキープしようとしても奪われたり、体勢を崩されたりと自分のプレーを出すことに苦労しました。でも、そこで自分なりに考えてボールの置き所や身体の向きなどを工夫したら、帰国後は自分の思うようなプレーがよりできるようになりました」
まさに自分の手で成長を掴み取ったことで、大きな自信が芽生えた。不動のエースとなった高2では選手権に出場。蒲原監督が監督を務めた日本高校選抜にも選ばれると、今年3月のデンソーチャレンジカップ熊谷大会では、格上の大学生を相手にも一切怖気付くことなく、左サイドハーフとして切れ味鋭いドリブルとスルーパス、強烈なシュートを駆使して大きく躍動をした。
ここでの活躍が認められ、アルビレックス新潟とサガン鳥栖から練習参加の打診が届いた。4月に2クラブの練習に参加をすると、新潟が真っ先に熱烈なラブコールを送ってくれた。鳥栖からは具体的なオファーは届かなかったが、J1でプレーしたいという気持ちもあり、すぐに回答はできなかった。実際に他のクラブも動くかもしれないという話も出ていた(J2の1つのクラブからは正式にオファーがきた)が、それでも熱意を持って試合会場まで足を運んでくれる新潟の本間勲スカウトの姿勢に、彼の心は徐々に地元のクラブへと傾いていった。
「実家がビッグスワンから自転車で行ける距離にあって、小学生の時からビッグスワンにアルビの試合を観に行っていました。生まれた時から身近にあったクラブで、憧れを持って見ていたクラブなので、だんだん『アルビのユニホームを着て、ビッグスワンに立ちたい』と思うようになったんです。本間さんの熱意にも応えたいと思ったし、地元で活躍する姿をお世話になった人たちに見せたいと強く思うようになった」
そしてインターハイ前に彼は新潟に進む決断を下した。福井でのインターハイは初戦で流通経済大柏に0-4と完敗を喫してしまったが、「選手権はプロ内定選手として注目されるし、恥ずかしい試合はできない。もっと意識を高く持って佐賀東のために成長したい」と決意を固めて、残りの高校生活を過ごしている。
「内定を発表してから、地元の友達には黙っていたので、物凄く大きな反響が届きました。小学校、中学校の同級生にもアルビサポーターはたくさんいるので、『ユニ買ってビッグスワンに応援に行くよ』と本当に喜んでくれたのは嬉しかったし、地元出身選手として期待されている分、責任と自覚を持ってやらないといけないなと感じました」
地元クラブの一員となれる喜びと重圧をモチベーションに変えて、新たな一歩を踏み出した吉田。実はもうひとつ、新潟入りを決めた大きな理由があった。それは彼の中のアイドルである『新潟の至宝』ことMF本間至恩の存在だ。
吉田が本間を初めて観たのは、彼が小2の時だった。当時、アルビレッジで行われた大会で、小5だった本間のプレーに心を奪われた。
「もう一人だけ別格で、身体がめちゃくちゃ小さいのにドリブルで自分より大きい選手をバンバン抜いていく姿を見て衝撃を受けました。そこからアルビのジュニアユースに進んだ至恩くんのプレーが観たくて、アルビジュニアユースの試合を何度も観に行くようになりました」
吉田自身も小3から小4の途中までの1年半弱、新潟U-12に所属をしたこともあり、より多くの本間のプレーを見ることが出来た。新潟の下部組織でぐんぐんと成長をしていく本間に刺激を受けながら、彼は自分なりのプロになるという目標への道を切り開いていった。そして、今年4月の1回目の練習参加で憧れ続けた本間と一緒にプレーすることが出来た。
「もう夢のようでした。目の前に至恩くんがいて、一緒にサッカーをしているだけでも最高でした。それに至恩くんはドリブルというイメージが強くて、そこは今も変わっていないのですが、一緒にプレーをしたことで、ドリブルだけではなくパスも上手いし、攻守の切り替えも物凄く速い。見えている世界が広いし、多くの選択肢を持ちながら、瞬時に判断をしてプレーしているからこそ、武器であるドリブルがより際立つのだと勉強になりました」
こう目を輝かせながら語る一方で、「その至恩くんですらもスタメンから外されることもある。とても厳しい世界なんだと痛感した」と、現実もしっかりと受け止めて自分を戒めることも忘れなかった。
小さい頃から自分に足りないもの、そして上を目指す原動力を与えてくれた本間と一緒にサッカーがしたい。もっといろんなものを学びたい。この純粋な心も彼の決断を大きく後押しした。
複数の要素が重なり合って、彼は地元へ凱旋をする。その前にまずはお世話になった佐賀東高で選手権に出場し、かつて赤崎秀平(仙台)、中野嘉大(鳥栖)にも超えられなかった全国ベスト4の壁を乗り越えて、新たな歴史を刻む。そして、そこで得た自信を携えて新潟の地に降り立てるように。残り少ない高校サッカーを全力で駆け抜けんと、吉田陣平は湧き上がるモチベーションと共に力強く走り出している。
取材・文●安藤隆人(サッカージャーナリスト)
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