“イタリアの英雄”パオロ・ロッシの数奇なサッカー人生。八百長疑惑で2年間の出場停止→復帰後3試合でW杯制覇&得点王に

“イタリアの英雄”パオロ・ロッシの数奇なサッカー人生。八百長疑惑で2年間の出場停止→復帰後3試合でW杯制覇&得点王に

82年のW杯でイタリアを優勝に導く活躍を見せ、一躍英雄となったロッシ。(C) Getty Images



 私の携帯の住所録には二つの電話番号が登録されている。パオロ1とパオロ2。パオロ・ロッシの携帯と家の番号だ。もうこの番号に電話をかけることはないのだが、私がそれを消すことはないだろう。パオロとはただの記者と選手いう間柄ではなく、友人だった。友人のことは決して忘れない。

 昨年12月、明るい色の木の棺に納められた彼は、1982年にともに世界を制した仲間たちの手によって永遠の旅路に着いた。パオロ・ロッシ、いや“パブリート”(ロッシの愛称)の葬儀は心が痛むものだった。彼の妻と8歳と11歳の二人の娘は棺の前に膝をつき、会葬者全ての涙を誘った。

 しかし涙の痕が残る友人たちも、最後に彼を拍手で見送ろうと集まって来た人々も、その他大勢のイタリア人にとっても、一番に思い出すのは、あのスペインの空の下で輝いていた彼の笑顔だろう。

 パオロ・ロッシはフィレンツェに近いプラトーという町で生まれた。他の少年と同様に地元のチームでプレーしていたが、16歳の時にユベントスのスカウトの目にとまった。しかし、彼の両親はトリノ行きに大反対した。実は数年前に兄のロッサーノも、全く同じ経緯でユベントスに引き抜かれたのだがうまくいかず、突き返された形で家に戻ってきていたのだ。

 ただユベントスも熱心で、1500万リラで契約をし、パオロはトリノへ向かった。しかし彼の時はすぐには来なかった。ユースチームで2年間プレーする間に、3度も膝を手術。しかし、頑固な彼は決してへこたれず、18歳にならないうちにトップチームデビューを果たす。

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 ただ特に目立った活躍はできず、75年にはコモにレンタルされるが、ここでも鳴かず飛ばず。ユベントスは、スピードはあるが華奢なこの選手を育てるのは無駄骨だと考え始め、彼のパスの半分をヴィチェンツァに売り渡した。

 しかし、そのヴィチェンツァの環境が、どうやら彼には合っていたようだ。1976-77シーズン、セリエBで21ゴールを決めてセリエA昇格に導くのだ。そして翌年のセリエAでは、24ゴールを挙げ、ユベントスに次ぐ2位躍進の原動力となった。

 この1978年は、パオロにとって大きな転換の年だった。当時のイタリア代表監督エンツォ・ベアルゾットが、彼をアルゼンチン・ワールドカップのメンバーに招集。当初パオロは控えだったが、一旦チャンスをつかむと3ゴールを決め、イタリア中を沸かせた。

 大会後、パオロのパスの所有権は注目の的となった。半分はユベントス、半分をヴィチェンツァが持っていて、どちらも相手の持つ半分のパスを買い取りたがったが、金額で全く折り合いがつかない。ついにはサッカー協会介入のもと、入札が行われることとなった。残りのパスに幾らをつけるか金額を書いて、封をするのだ。

 協会本部で封が切られると、ユベントスのつけた値は8億リラだったが、ヴィチェンツァはなんと26億1200万リラだった。とんでもない額についてヴィチェンツァの会長ファリーナはこう説明した。

「サッカーとは芸術で、ロッシとはレオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザだ」

 しかし、すべては望み通りにはいかなかった。ヴィチェンツァはその後すぐにまたセリエBに降格し、パオロはペルージャに売られる。おまけにペルージャではある試合で八百長をしたと(彼はその試合で2ゴールを決めているのにもかかわらず)訴えられた。

 パオロ自身は終始無実を主張していたが、スポーツ裁判所は彼に2年の出場停止を言い渡した。こうなると現金なもので、もう誰もパオロに見向きもしなくなった……。そう、ユベントスを除いては。

 ユーべは、彼が試合に出られないのを承知でパオロと契約し、練習に参加させた。もう一人、パオロのことを忘れていない者がいた。ベアルゾットだ。スペインW杯に向けて準備を進めていた彼は、パオロにこう約束した。

「必ず君を連れて行く」

 こうして1982年4月、晴れて出場停止処分が解けると、ロッシはユベントスで3試合をプレーしたのち、代表に合流した。これに対する非難は激しかったが、ベアルゾットは気にしなかった。ただ長い間試合に出ていなかった彼のコンディションが良いわけはなく、最初の数試合では残酷にもそれが顕著に露呈された。

 しかし、ベアルゾットは頑固だった。そしてその信頼に応えるかのように、パオロは突如覚醒する。この大会で最強の呼び声が高かったブラジル相手にハットトリックをマークしたのを皮切りに、ポーランド戦では2ゴール、そして決勝のドイツ戦では1ゴールを奪取。大会得点王に輝く活躍で、アッズーリを優勝に導いた。パブリートは伝説となった。ちなみに、その年のバロンドールも受賞。イタリア人としてはジャンニ・リベラに次ぐ2人目の栄誉だった。
 
 その後、ユーベでもスクデット、カップ戦優勝と栄光の日々が続いた。しかし、彼の膝は相変わらず華奢でハードなプレーに耐えられず、ミラン、ヴィチェンツァとプレーしたあとに、31歳という若さで、ヴェローナで引退した。

 引退後はサッカーの現場からは離れたものの、W杯優勝メンバー(多くはユベントスのチームメイトでもあった)とはその後もずっと友情が続いていた。また自分のルーツであるトスカーナも忘れてはおらず、そこでアグリツーリズムを開きワインやオリーブオイルを製造していた。最初の結婚で生まれた息子のアレッサンドロはもう40歳近くになる。そして、2度目の妻との間に生まれたのが、葬儀で涙を誘った2人の娘である。

 亡くなる前、しばらく彼と会ってはいなかったが、いくつもの局から声のかかる人気のスポーツ解説者でもあったので、テレビを点ければいつでもあのパブリートの笑顔に再会できると思っていた。もうそれが見られないということが、いまだに信じられない。
 
文●パオロ・フォルコリン
翻訳●利根川晶子

【著者プロフィール】
Paolo FORCOLIN(パオロ・フォルコリン)/ヴェネツィア生まれ。いくつかの新聞や雑誌を経て、1979年から『ガゼッタ・デッロ・スポルト』紙の記者に。まずは北部エリアを担当し、その後はユベントスの番記者を約30年に渡って務める。デル・ピエロやブッフォン、インザーギなどと親交を深めた。現在はフリーランスとして活躍。著書にデル・ピエロの伝記、ユーベの近代史を描いた『飛翔』など
 

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