稀代のテクニシャンはいかにして作られたのか?「俺の原点」習志野高から日本代表への飛躍まで【玉田圭司ストーリー・前編】
2021年12月25日 06時57分サッカーダイジェストWeb

技術を徹底的に磨いた習志野高を原点にプロへ、そして世界の舞台へと飛躍した玉田。写真:サッカーダイジェスト
「引退しようかなと心が固まったのは11月。8月くらいから妻と軽く話をするようになりました。自分自身は『やれる』と思っていても、公式戦で自分を披露する場がなかったことが一番大きかった。今までは心と身体のバランスをとることが難しいと思ったことはなかったけど、今年初めて感じましたね」
【動画】これぞファンタジスタの一発!玉田が今季初ゴールを決めた山口戦(2分13秒~)
12月11日に長崎市内で引退会見に臨んだ玉田圭司。23年間のプロキャリアに終止符を打った経緯を神妙な面持ちで口にした。「V・ファーレン長崎をJ1昇格させる」と決意して2019年に九州の地に赴いて3年。その目標は叶わなかったが、「やれることは全てやり切った」という清々しさを感じられたからこそ、ユニホームを脱げたのだろう。
Jリーグ通算511試合出場・131得点。日本代表でも国際Aマッチ76試合出場・16得点。2006年ドイツ、2010年南アフリカと二度のワールドカップ(W杯)に出場するという偉大な実績を残した玉田だが、習志野高時代はここまで飛び抜けた存在になるとは想像だにしなかった。
筆者が初めて彼を見たのは、97年夏の京都高校総体。習志野の2年生レフティは切れ味鋭いドリブルで敵陣を切り裂き、左45度から強烈なシュートを次々とお見舞いしていた。
「なかなか面白い選手でしょ」
本田裕一郎監督(現国士舘高校テクニカルアドバイザー)にそう言われ本人に近寄ると、爽やかな笑顔のイケメン。スター性を感じさせたが、当時の習志野はU-16日本代表経験者の吉野智行(鳥取強化部長)や菅野拓真(元千葉)、藤島崇之(昌平高監督)らがひしめくタレント集団。ライバル校の指導者も「玉田は左のアクセサリー」と言っていて、そこまで高く評価されていたわけではなかった。
「年代別代表なんて1回も呼ばれなかったし、全く目立ってなかった。でも習志野の全員が技術と個性を生かした攻撃的なサッカーは楽しかった。あれが俺の原点だね」と本人は充実した高校時代を過ごしていたという。
隠れた逸材に目を付けたのが、柏レイソル。当時の久米一正GM(故人)、宮本行宏スカウト(現代理人)らが彼を高く評価。熱烈なオファーを出し、99年の入団が決まった。当時の柏は西野朗監督の下、明神智和(ガンバ大阪ユースコーチ)、北嶋秀朗(大宮コーチ)ら有望な若手を育て、タイトルを獲れるクラブにしようと躍起になっていた頃。玉田もその重要なピースの1人と位置づけられ、期待された。
「レイソルに入った頃はまだまだ子どもだったし、プロとはどんなものか分からなったけど、本当に素晴らしい選手がいて、いろんなことを教わった。筆頭がストイチコフ(元ブルガリア代表)と洪明甫(蔚山現代監督)。自分から話しかけに行っていじられたりもしたけど、可愛がってもらったし、選手としても認めてもらえた。いい経験になりました」
本人もこう述懐しているが、同じレフティとして世界を魅了したストイチコフの一挙手一投足は特に刺激を受けたはず。ともにプレーしたのは半年足らずだったが、左足1本で勝負を決めてしまう世界的スターの頭抜けた個には圧倒されたに違いない。時には西野監督にも強い要求をするなど「ピッチ上の指揮官」として振る舞った部分も含め、オーラは凄まじかった。そういう選手と短期間でも共演できたのは、彼の大きな財産になった。
柏の主軸に成長するきっかけを掴んだのは2002年。個人能力重視のマルコ・アウレリオ監督が埋もれていた玉田を抜擢。2003年は28試合出場11ゴールと初めて2ケタ得点を挙げる。日本人選手としては久保竜彦、大久保嘉人に次ぐ3位で、日本代表待望論も高まり始める。
その新星FWを指揮官のジーコも見逃さず、2004年3月の2006年ドイツW杯アジア1次予選・シンガポール戦で初めて抜擢する。直後の4月のハンガリー戦で代表初ゴールを挙げ、続くチェコ戦では久保竜彦との2トップで1-0のミラクル勝利に貢献。2004年アジアカップ(中国)では鈴木隆行(解説者)と最前線を形成し、アジアタイトル獲得の原動力となった。
「1次リーグは自分のプレーを全く出せなかった。ジーコは使い続けてくれたけど、得点は取れてなかった。周りには悩んでるように見えたんだろうね。ある時、アツさん(三浦淳宏=神戸監督)さんが『FWって90分の中で1点取ればいいんだよ』と声をかけてくれたんです。それで気が楽になり、開き直れて、準決勝のバーレーン戦で2点を取れたんです。代表に入った直後も柏の先輩・土肥洋一さん(山口GKコーチ)さんや藤田俊哉さん(JFA強化部員)も気にかけてくれた。ベテランの人たちのサポートは大きかったですね」
玉田はのちにしみじみと語ったが、この経験は30代で移籍したセレッソ大阪や長崎で大いに生かされた。「若い頃はドリブルとか自分のスタイルだけを追求していたけど、年々チームのことを考えるようになった」と語るように、サッカーやチームの捉え方に変化が生じたのは確かだろう。
ただ、2006年ドイツW杯のブラジル戦で世界を震撼させる先制弾を叩き出した頃は、「自分の力を示したい」という思いの方が強かったという。
「あの時は正直、全く緊張しなかったね。ブラジル相手にスタメンで出られるんだから、『もうやってやろう』という気持ちしかなかった。試合前も試合中もホントに楽しかった。あの舞台でブラジル相手に取ったのは、意味あることなのかなと思います」
そのゴールが得意の左45度からの一撃だったのは特筆すべき点。筆者は「玉田ゾーン」と呼んでいるが、ペナルティエリアギリギリのところから左アウトで運んで打つという彼ならではの形は確かにあった。「絶対にこれだけは負けない」という傑出した武器があったからこそ、彼は大舞台でゴールを奪い、20年以上のプロキャリアを続けることができた。「オンリーワンの武器」に磨きをかけることこそ、プロとして成功する最重要ポイントだ。
その重要性を稀代のレフティ・玉田圭司は自らしっかりと実証してくれた。(文中敬称略)
※中編に続く。次回は12月26日(日)に公開。
取材・文●元川悦子(フリーライター)
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