名古屋・セレッソ時代に出会った3人の恩人――ピクシー、フォルラン、風間八宏から学んだもの【玉田圭司ストーリー・中編】

名古屋・セレッソ時代に出会った3人の恩人――ピクシー、フォルラン、風間八宏から学んだもの【玉田圭司ストーリー・中編】

2010年には名古屋の初優勝に貢献した玉田。優勝決定の湘南戦では、決勝点を挙げた。写真:サッカーダイジェスト



 2006年ドイツワールドカップ(W杯)のブラジル戦で世界を震撼させるゴールを奪った玉田圭司。彼はその年に柏レイソルから名古屋グランパスへ移籍した。

 名古屋時代は楢崎正剛(名古屋CFS)、藤田俊哉(JFA強化部員)、田中隼磨(松本山雅)、本田圭佑ら個性豊かな面々と共演。2008年にドラガン・ストイコビッチ監督(現セルビア代表)が就任すると、絶対的武器であるドリブル突破からのシュートを強く求められ、本来のキレを取り戻していく。

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 同年には日本代表にも復帰。岡田武史監督(FC今治会長)からも「攻撃陣を引っ張っていってほしい」と重責を託された。本人も初めて「自分は代表の主力なんだ」という自覚を持ってプレーするようになった。

 ところが、2009年に入ると肋骨骨折やグロインペイン症候群に悩まされるようになる。時を同じくして、岡崎慎司(カルタヘナ)が急成長。この1年だけで15得点という驚異的なゴールラッシュを見せたこともあり、玉田はサブに追いやられる格好になってしまう。2010年南アフリカW杯出場を決めた6月のウズベキスタン戦も欠場。海外経験のある松井大輔(YSCC横浜)や大久保嘉人らも台頭し、自身の集大成と位置付けていた南アではベンチに縛り付けられた。

 ピッチに立てたのは、オランダ戦とパラグアイ戦の途中から。後者では最後の切り札として大久保と代わったが、惜しいシュートチャンスを決められずじまい。救世主になれず、「フルで活躍したかった」と本人も悔やんだ。この時点で30歳。代表キャリアは不完全燃焼感を抱えたまま一区切りとなった。

 しかしながら、フットボーラーとしてはここからが本当のスタートだったのかもしれない。同年のJ1では13ゴールを挙げ、名古屋のリーグ優勝に貢献。タイトル獲得を決めた11月の湘南ベルマーレ戦でも決勝弾を叩き出した。田中マルクス闘莉王や三都主アレサンドロらも加わり、このシーズンの名古屋は「際立った個性の集団」だった。

「ピクシーは『勝利のメンタリティ』とよく言っていたけど、ナラさんや闘莉王も『俺たちは勝てる』と心底、信じてました。個性がまとまった時のチームはやっぱり強い。それを痛感させられたのが南アと2010年の名古屋でした」と玉田はしみじみと言う。この成功体験がその後のベースになったのは間違いないだろう。
 

「個と組織の融合」の重要性をより痛感したのが、名古屋の後、2015年に赴いたセレッソ大阪だ。当時のチームには南アW杯MVPのディエゴ・フォルランが在籍し、非常に大きな刺激を受けたという。

「フォルランからは、シュートを打つ大事さ、貪欲さを学んだ。多少、難しい位置や角度でも関係なく蹴っていた。あれを積み重ねることで、スペインリーグ得点王になったんだと実感したんです。彼のプレーを間近で見ながら『こういうところでシュート狙うんだ』『こういう動きするんだ』と感じる場面はたくさんあったし、すごく勉強になったよね。

 彼のような世界的トップ選手と若い日本人選手の架け橋になることをセレッソ時代は意識していた。周りをどう生かせばいいかつねに考えていた。自分の役割や何をすべきかを真剣に考えたし、サッカーを俯瞰して見るようにもなったのかな。

 ひとりの選手が生き延びるために必要なのは、技術とビジョン。そこがクリアになれば、長生きできる秘訣も分かってくるからね」

 30代後半にさしかかった玉田は、この時改めてサッカーの奥深さや魅力に目覚めたようだ。
 

 その感覚をより研ぎ澄ませてくれたのが、2017年に復帰した名古屋で師事した風間八宏監督(現セレッソアカデミー技術委員長)であった。

「風間さんからは学ぶことがすごく多かった。今の川崎フロンターレのベースを作った方だけど、人とボールが流動的に動き、全員がやるべきことを共有して戦うという理想的なスタイルを目指していた。僕自身も守って守って1-0で勝つより、派手な打ち合いをして4-3で勝ち切る方が好きだから。
 思い返してみれば、中学時代を過ごした市川カネヅカFCも習志野高校もそうだった。風間さんとサッカー観を共有しながら、高みを目指せたのは大きかったですね」と彼はしみじみと語っていた。

 風間監督とともに仕事をしたのはわずか2年間。それでも、自身の志向するサッカースタイルが明確になったという意味では、非常に価値ある時間だったと言っていいはずだ。ひとりのアタッカーとしても、2017年はJ2で28試合出場6ゴール、2018年はJ1で24試合出場3ゴールと37~38歳とは思えないほどのインパクトを残すことに成功した。「俺はまだまだ違いを見せる自信がある」と当時の彼は口癖のように話していたが、確固たる自信を与えてくれた指揮官には心から感謝しているはずだ。

 ストイコビッチ、フォルラン、風間八宏。3人の恩人との出会いがあったからこそ、玉田圭司は30~40代にかけて一段階二段階の飛躍を遂げ、輝きを放ち続けることができた。そこは彼のサッカー人生において特筆すべき点だろう。

※後編に続く。次回は12月27日(月)に掲載します。

取材・文●元川悦子(フリーライター)
 

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